そして、慰霊とは、霊位に対し奉り、対座することである。
つまり、祈りである。
何故、追悼慰霊をはじめたのか・・・
それは、最初の旅日記に書いていたが・・・
20年以上も前になる。
その頃、私は占いによる、相談を行っていた。
勿論、今も相談を受ける。
その頃、一人の女性がよくやって来た。
通訳の仕事をしていて、グアム、サイパンによく出掛ける。
帰国して、私のところにやって来るのだ。
相談内容は、日本兵の霊を見たというものである。
それだけなら、問題なかった。
彼女は、そしうて、具合が悪くなるというのである。
何処に行っても、解決しないので・・・
そこで、私は、私になり、処置をした。
それで、彼女が楽になり・・・
旅を終えると、毎回やって来て、今回は・・・
と、見た霊の話しをする。
彼女にとって、それは、現実である。
霊はいないと言っても意味が無いのである。
私は、それにより、いつか、慰霊に出掛けたいと思うようになった。
更に、戦争が終わり、それでも霊として、戦地に漂うという、その哀れさである。
だが、そこに辿り着くまでには、時間が必要だった。
最初に出掛けたのは、サイパンである。
兎に角、サイパンで確認しようと思った。
追悼、追って、悼むのであるから、戦記を読み始めた。
そして、愕然とする。
知らなかった。
こんな状態だったのか・・・
こんな酷い戦争だったのか・・・
私の父は、最後の少年兵だが、戦地に出る前に、敗戦となったゆえに、戦地の話は聞いていない。
大戦の意味を知れば知るほど、惨いのである。
知ることの、意義は大きい。
当時の大東亜圏の広さは、莫大である。
そんな莫大な広さの中を戦ったのである。
海、山、川・・・
至る所、日本兵の遺骨があることを知る。
だが、慰霊をするために出掛けるが、霊的な現象に遭うことはなかった。
唯一、明確に出来たのは、パラオ、ペリリュー島に出掛けた時である。
そのことについては、天皇の島ペリリュー島という、旅日記に書いているので、省略する。
そして、日本兵ではないが、カンボジア、プノンペンに出掛けて、一度、霊的現象を感じたのみ。
それについても、旅日記に書いている。
戦地、激戦地を廻るうちに、知らないことは、実に悲しいことだと、知る。
何があったのか・・・
それを知るべきである。
ただ、人には、強制しない。
私の問題である。
インドネシア、ニューギニアの、イリアンジャヤのビアク島に出掛けた時の、慰霊の際には、絶句した。
日本兵が、潜んでいた洞窟に、米軍が火炎放射器を使い、ドラム缶を投げ入れて、火を放った。
そこには、負傷した兵士が多く、糞尿にまみれ、捨てられた兵として、最期を覚悟していたという。
祈りの言葉も無かった。
そして、祈りも嘘になる。
何をすれば、いいのか。
それでも、祝詞を献上し、君が代を歌い・・・
だが、違う・・・
ただ、黙祷であった。
遺族でなくとも、胸がかきむしられる。
どうして、こんなところで、死ななければならぬのか・・・
ただ、私は、あなたたちのことを、忘れないために、やってきましたと、言った。
そして、その遺品を見た。
その一つ一つの遺品を、清め祓う。
そこに込められた、想念を祓う。
もう、戦争は、終わったのです。
本当に、ご苦労様でした。
そして、ありがとうございました。
私が、このような気持ちになったことを、私自身か喜んだ。
忘れない。
死ぬまで、慰霊の行為を続けるという、気持ちである。
これは、私の問題である。
人に説くことではない。