2012年12月03日

性について。221

エロスへの発達段階をみる。

まず、乳児が、本能的ともいえる欲求としての、感覚的満足を得るための、反射的パターンにより、一方的に満足感を得るための段階である。

この場合は、モノでも代用できる。

次ぎに、乳児の一方的な欲求に対して、母親が、それを解消しようとする。やがては、誘発者、解消者の役割を負う。それは、相互に演じあうものになる。
愛着本能と、母性本能を、互いに満たすのである。

ここからが、エロス的コムニケーションとなる。

そして、第三は、単なる相互的で、感覚的なものではなく、相手の快感と満足の共有ということになる。

相手と、我との、欲求の一致をみるものである。

更に、その行為を人は、愛とも呼ぶ。

上記を定義とすれば、相互の欲求を満たさないエロスの関係は、エロスとも、愛ともいえないということになる。

そして、大人、つまり性器性欲が満たされる年齢になると、相互の欲求の誘発と、コムニケーションとなり、オルガスムの共有となり、その共有の一致を求めて、エロスへの道を進む。

これを深めると、決して、一人では行うことが出来ないものである。
相手が必ず必要である。
その相手を求めて、つまり、エロスを共有する相手を求めて、人は旅を続けるといえる。

この相互的なコムニケーションの様式の原型は、系統発生的つまり生物学的基礎をもった非言語的、原始的コムニケーションであり、直感的、本能的なものである。いやむしろ本能そのもの生物学的なものそのものが、本来意味的なもの、コムニケーションを含蓄しているといってもよい。
小此木圭吾 エロス的人間論

それは、快感原則に従うが、本来、他者との中に、満足の共有と欲求の一致を目指すものであるということになる。

学者研究家は、特に、表現する際に、科学的言語を用いなければならないという、固定観念があるようで、難しく感じるが、何のことは無い。
平たく考えていいのである。

求め合えば、成り立つのが、エロスである。

そのエロスの原型が、親子関係、特に、母子にあるというのが、フロイトから始まる、心理学の考え方である。

そして、最も、最小の人間関係である。
二人の人間で成り立つ。

それが、家族関係から、社会集団の形成にも影響する、つまり、エロスが働くと考えるという、広がりである。

人間が人間関係をそして社会集団を形成する根源的な欲求だからである。
小此木

フロイトも、
集団は明らかに、なんらかの力で結合されているが、エロス以外にどんな力にこの働きを帰することができようか。エロスこそ世のすべてを結合する。
と、言う。

そうすると、ここから、社会学の世界に入ることになる。
それは、後で書く。

小此木氏は、そこで、警告を発する。
つまり、根元的なエロスの世界は、そのまま、われわれの現実の世界であろうか。
と言う。

男女も、家族も、社会集団も、乳児と母親の関係のように、常にエロスに満ちているだろうかというのである。

エロス的コムニケーションは失われて、疎外や断絶の中におかれている。
そして、エロスを喪失しては、本当に生きていることにならない。
エロスは、そして生きることは、対象そのものが、コムニケーションの相手が、エロスでなければならないとの警告である。

それほど、時代が病んでいるということだろう。
性器性欲ではなく、性欲だけで、生きる人たち・・・

相互のコムニケーションを得ることなく、単に、我の欲求だけを求めて、相手を道具にする行為。
ということは、つまり、乳児体験の欠如ということにもなる。

そうだろか・・・
それも、エロスも、時代によって、変容すると、考えられないのか・・・

時代には、時代性と、時代精神がある。
万葉時代と、人間には、大差は無いが、時代が違う。
そして、この時代は、欠如した時代なのだろうか。

文系の学問の世界は、批判によって、成り立つ。
更に、評論である。
そして、時代に対する、警告から成り立つ。

だが、私が思うに、太古の時代に戻れば、解決するというような、問題ではない。

それこそ、退化である。
進化しているはずである。

エロスの世界も進化する。つまり、人間の性のあり方も、エロスのあり方も進化する。変容するのである。

日本の場合も、核家族化し、更に、終身雇用制が失われ、エロスによって成り立つ社会集団というものも、形を変えた。当然、そのエネルギー源も変容しているはずである。

良い悪いの、問題ではない。
そのようになっているのである。



posted by 天山 at 05:30| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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