2012年10月09日

天皇陛下について133

7月11日、早朝、後白河天皇方の、源義朝、平清盛らの軍兵が、崇徳上皇方の、白河北殿に先制攻撃をかけた。
八郎為朝の猛攻撃に対して、寄手は、火を着けた。

上皇方は、あっけなく、敗れた。

先制攻撃の夜討ちを主張したのが、為朝だったが、頼長が、頑固で融通が利かないために、実行されなかったのである。

天皇方は、少納言入道の信西という者が、関白忠通を補佐して、義朝の先制攻撃案に賛成した。
そして、敵は朝敵です。朝敵征伐である、と激励した。

確かに、天皇に楯突く者は、朝敵である。

戦の世を通して、この朝敵という言葉が、いかに重大な言葉になったか・・・

天皇を敵にしてはいけないのである。
それが、日本の伝統である。

崇徳上皇は、馬で如意山に、お逃げになった。だが、再び京に戻り、知足院にて剃髪し、仁和寺にお入りになり、仏門に入る。
しかし、讃岐へ流されることになった。

9年後に、同地で崩御された。
その皇子、重仁親王も、出家された。

頼長は、戦いの流れ矢で死ぬ。
為義は、為朝の諫言を無視し、義朝を頼り、降りた。

平忠正も甥の清盛を頼り、降りた。

しかし、清盛は、忠正を斬る。
これでは、義朝に功労があっても、父為義や、弟たちを斬らねばならない。
止む無く、家来の鎌田政家に斬らせたのである。

ただ、為朝だけは、逃げた。
しかし、間もなく、捕らわれ、伊豆の大島に流罪である。
ところが、為朝は、二条天皇の御代、小舟で琉球に渡り、琉球王となった。
それから、第八十代高倉天皇の御代に、追っ手がかかり、これまでと、立ち腹斬って死んだといわれる。

以上は、保元の乱といわれるものである。

だが、引き続き、平治の乱が起こる。

後白河天皇は、ご在位4年で、第七十八代の二条天皇、1158年より1165年、にご譲位され、上皇として、院政を始められた。

相談相手には、少納言入道信西がいる。
また、臣下には、藤原信頼がいたが、入道信西と、ことごとく、ぶつかるのである。

信頼は、中納言に右衛門督にまで昇格した。が、更に、その上を望むのである。

そこで、上皇に申し出る。右近衛大将に任じてください、と。
上皇は、入道信西に相談される。
すると、反対である。それが、信頼にも、聞えた。

信西憎いとなる。更に、天皇臣下の中にも、反信西がいたのである。
それらが、信頼の味方についた。

だが、信西には、平清盛が楯になっている。

更に、義朝も、信西に恨みを持つ。やがて、義朝も、信頼の味方になる。

平治元年、1159年、12月4日。
清盛が、その子の重盛らを連れて、紀州熊野へ出掛ける。

そこで、信頼方の軍が、上皇の御所三条殿を囲んだ。
狙いは、入道信西である。
しかし、彼は逃走していた。

それを知らぬ、包囲軍である。
まず、上皇を車にお乗せして、皇居の一間にお移しする。
三条殿に放火し、信西を探すが見つからないのである。

そこで、信頼は、二条天皇も、一間に押し込めてしまった。
これでは、暴虐の罪である。

しかも、信頼は、その夜から御所にあって、天皇と上皇を擁して、政権を握ったのである。

入道信西は、大和の田原まで逃げ、穴を掘り隠れたが、自殺する。
追っ手は、その首を持ち帰り、京の西の獄門に晒した。

さて、義朝の長子、義平が豪傑に、清盛を帰路に待ち受けて、斬るという。
ところが、信頼が、都に戻った時に、討てばよいと、言う。

一方の清盛は、早馬で京の急を知り、引き返した。
17日である。

信頼のバカさ加減に愛想尽かしをした者、大勢が清盛に寝返る。

そのゆえに、25日夜、清盛は、天皇を一間から救う。
上皇も御所を抜けられた。

信頼は、それを翌朝知る。

天皇と上皇は、六波羅の清盛邸におわす。
宮廷臣たちは、六波羅へ急ぐ。

ついに、朝敵征伐の詔、みことのり、が清盛に下る。
平家の大将は、重盛と頼盛であるが、一端逃げた。それは、計略である。
御所を火にしてはいけないということだ。

信頼、義朝軍をおびき出して、その後で、平家一門の味方を入れ替える。
この時に、六波羅まで押し寄せた源氏一門の中で、朝敵になることを嫌い、頼政、光保、光基などは、六波羅を攻めていない。
そのため、義朝軍は、敗れる。

御所は、平氏の一隊に占領されている。
義朝軍は、進退窮した。

義朝は、義平、頼朝らと京を逃れた。
信頼も、同行を求めたが、義朝に鞭で打たれたとある。

都に引き返し、上皇にすがるが、清盛が許さず、六条河原で、斬られた。




posted by 天山 at 06:21| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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