2012年09月10日

天皇陛下について126

第五十八代光孝天皇、884年より887年。
文徳天皇の御弟である。

ご在位四年で、重い病にかかられた。
その時、まだ、皇太子が決まっていない。

天皇は、心中、定省、さだみ親王と、考えていた。しかし、親王のご生母は、桓武天皇の、御孫に当る。つまり、藤原氏の娘ではない。

摂政の、藤原基経は、早く皇太子をと思う。天皇に、お言葉を求めるが、天皇は、ご遠慮される。
そして、基経の考えに任せると、仰せられた。

基経も、天皇の御心を察して、定省親王を、お立て申すことに、と、申し上げる。

親王は、大変、聡明であらせられた。

21歳で、ご即位される。
そして、基経を信頼し、天下の政治は大小となく、すべてこれを太政大臣に関白、あずかりもうして、しかるのちに奏下せよ、と、詔を示したのである。

この時に、あずかりもうして、という、関白という名称が登場する。
その後は、藤原氏が、天皇幼少の間は、摂政、ご成人された後は、関白として、朝廷の政治を思いのままにするのである。

習慣になってしまったのである。

摂政も、関白も、職は同じである。
天皇のお年によって、職名が変わるだけである。
これを合わせて、摂関ともいう。

この職に就くのは、太政大臣の上にあり、一般は、これを貴び、殿下と呼んだ。

豊臣秀吉の、関白殿下が、有名である。

基経にとって、それは、大手を振って、朝廷の政治を左右することが出来るというもの。藤原氏の勢力が更に強まった。

それを見て、天皇は、これは良くないと、思われた。
しかし、しばらくは、見守るしか、方法がないのである。

ご在位、四年目に、基経が亡くなった。
そのため、その後は、関白も、太政大臣もおかず、天皇自ら、政治を執られた。

天皇は、在位二年の年に、
わが国は神国である。よって毎朝、四方、大中小天神地祇を敬拝す。敬拝のこと、ただ今よりはじめて一日も怠るなし
と、日記に、記してある。

今日の、皇居で行われる、四方拝のはじめは、この天皇の、寛平二年、890年からである。

更に、自ら、服御常膳を、節約になり、役人もまた、その料の四分の一を減ずる措置を執られた。

そして、七年後、寛平八年、896年、服御を減じ、年料を省くの詔をお出しになる。

去る仁和五年、私の服御や常の膳はなるべく節約するように命じた。役人にも、四分の一の料を減らさせた。私は微力である。民の苦を除きえぬことを思うと、まことに不安である。そのため、どんな小さなことでも、民の幸福をはかることなら、実行したい。そう思い身近なところから節約をした。
そのためか、衣食たって、民も礼節を知るようになった。いくらかは、世の中が明るくなってきたかと思われる。が、近年、思いがけぬ洪水、ひでり、兵禍、疾病などの、災いがおこり、穀物も不出来である。
しかし、天を怨み、人を咎めてもならぬ。また鬼神を疑い、神を責めるべきでもない。これらは、私の不徳がなせるわざであり、私一人がその責に任ずべきものである。
私は、今日ただ今の民の、貧苦をみるに忍びない。そこで、更に、服御の三分の一を減らし、また、あらたに、一年の諸雑費半分を節約する。
富国のことは私の、このからだである。この心を、お前たち民に合体させ、ともに励む以外にない。

さて、寛平二年には、讃岐守の任期が過ぎて、菅原道真が、都に戻った年である。
基経は、その翌年、死ぬ。

そこで、天皇は、かねてから、藤原氏の、勢力を抑えたいと考えていたので、道真を蔵人頭に、任じた。

朝廷の重大な文書を、司る役目である。
更に、政治の相談相手とされた。

道真に対する、天皇のご信任は、益々と厚くなり、藤原時平が、中納言になると、道真は、参議になり、時平が、大納言になると、道真は、権大納言になる。
時平より、一段低い地位であるが、その位が上がってゆくのである。

時平、27歳、道真、53歳の年、天皇は、み位を、皇太子にお譲りになる。

第六十代、醍醐天皇である。
だが、まだ幼く、お心得となるべきお言葉を贈られた。
後世、寛平のご遺憾として、有名になった。

賞罰をはっきりさせること。愛憎に迷うことがないように。何事も、平均が大切である。好悪によって、それをなしてはならない。また、喜怒を慎み、それを表面に現さぬように。

そして、藤原時平と、菅原道真に関することである。

時平は功臣良房を祖父、基経を父とする。年は若いが、政治には熟練している。先年、婦人のことで、失策があったが、私は、これを心に留めていない。むしろ昨年の春から、公事に励むようにと励ました。すでに第一の臣としてよい。相談相手として大丈夫であろう。

道真は、大儒である。深く政治を知る。私は選んで、彼を文章博士とし、しばしば、色々と諫言もしてくれたので、これを入れた。特に抜擢して、その功に応えた。更に、先年、皇太子を立てた折、彼だけが、相談相手だった。
その後、二年もたたないが、譲位しようと思ったが、彼は、そのような大事は、天の時というものがありますという。早まってはなりませんとも、直言した。確かに、正論であった。今年七月、諸臣は、やはりお延ばしした方がよろしいかと言ったが、今度は、彼が、このたび、もしお辞めになれば、変事が起こるのではありますまいかと言った。ということで、道真は、新帝の功臣といってもよい。それを、よく考えて欲しい。
なお、天子というものは、経史百家をひろく極めることがなくても、よろしい。ただ、郡書治要を、早く読み習うことである。くれぐれも、雑書に耽り、歳月を無駄にしてはならない。

郡書治要とは、佐伝、礼記などの、50巻のことである。




posted by 天山 at 05:36| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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