2012年08月09日

霊学73

深層心理学とは、人間の心を意識、無意識などを、層構造に分けて考える。

ところが、この深層心理なるものは、東洋では、すでに、解決済みであった。
深層心理が拓かれて、そこに身を置く人を、哲人と呼んだ。

それは、表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることの出来る人である。

表層、深層の両領域にわたる意識の形而上的、形而下的地平には、絶対無分節の次元の存在、そこからの、ちぢに分節された存在とが、同時に、ありのままに、現れるのである。

それは、インドの思想にあるものである。

これは、心理学と離れてしまうので、心理学に戻る。

私、というものの、私とは、何か。
私の、私が・・・
この、私という主体、つまり、行為や意識の主体としての、私を、自我と呼ぶ。

自我の働きは、外界の知覚である。
そして、内界の認知である。

更に、それらの経験を、記憶として体系化し、保存する。
だが、これらは、非常に複雑化してゆく。
新しい知覚により、記憶体系が、変革されることもある。

特に、若いうちは、そうである。

自我は、外的な現実と、内的な欲望、感情を認知して、その間に大きな摩擦を生じない程度に、適切な行為を選択する。

言われてみると、当たり前のことなのであるが・・・

更に、自我は、ある程度の、統合性を持つことが必要である。
一つのまとまった、人格として存在するために、である。
その中に、大きな矛盾を持つと、自我が分裂する。

私という、自我の統合性を保持するために、自分自身を防御する機能も、必要になる。

自我は、ある程度の、主体性と、統合性を持って、安定する。
だが、ここで、自我の統制に従わないコンプレックスは、それに対して、色々と反逆してくるのである。

多くの人の心の問題は、この辺りにあると、いえる。

もっと、問題なのは、無意識が、出て来た時である。

無意識と簡単に言うが、無意識は、宇宙大であると言うと、理解できるはずだ。
無意識の世界は、広すぎるのである。
無意識に、溺れると、狂わざるを得なくなるのである。

無意識の上面に、潜在意識が乗っている。

さて、自我と、コンプレックスの関係を深読みする。

得体の知れない、不安と、恐れがある。
得体とは、意味が解らないという意味である。

更に、それが、いらいらした気分からはじまる。

対象が見えないのに、いらいらする。
そして、その対象を見るのが、嫌な場合もある。

例えば、劣等感コンプレックスが、刺激されている時。
それを、受容できずに、ただ、いらいらする。

自我に対する、脅威が強くなくても、自我の内部に何らかの、不整合を生ずる場合である。
不愉快になり、いらいらする。

それらを、分析するのは、心理学者の得意技である。
そこまでは・・・

ここで、ユングを見ると、彼は、分裂病の患者の治療に当っていた。ゆえに、フロイトの理論では、どうしても、理解できない問題を感じ始めた。

その、妄想や、幻覚などを、幼児期におけるコンプレックスなどによっては、理解できないのである。

それから、ユングの研究がはじまった。
神話、伝説、宗教書・・・
患者の語る妄想の内容と、それらの間に、何らかの類比性が感じられたからである。

その人が、幼児期に呼んだ、童話や、神話などの、影響があるのではないかと。

そこから、ユングは、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している、個人的無意識と、他の人間とも、共通に持つ普遍的無意識とに、分けて考えたのである。

普遍的無意識とは、人類全般に、普遍的なものである。

ある家族に特徴的な家族的意識、ある文化圏に共通する、文化的無意識・・・・
それらを、総称して、普遍的無意識と、呼んだ。

ここで、少し、東洋に近づいた訳である。

そこで、ユングの、イメージと、シンボルという、考え方に至る。

イメージと、シンボルが、何を意味するのか、である。
フロイトの場合は、すべて、セックスに関することに始終した。

人間の根源的なものは、何かと、尋ねると、性的なことだけでは、解決できないのである。
勿論、フロイトの分析が意味の無いものであったとは、言えない。
それで、充分に、解決する問題も多い。

だが、それは、無意識ではない。
潜在意識である。

無意識には、魑魅魍魎が蠢いている。
狂わずに、無意識と対座したといわれる仏陀は、覚者といわれた。
これは、スピリチュアルなどというものではない。
現実の世界のことである。




posted by 天山 at 00:45| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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