2012年08月07日

霊学71

経験が「余韻」を残さないときには、現象学的分析について、問題は何も起こらない。
コーエン

簡単なことである。
連想ゲームを言う。

人の心は、連想により、成り立つ。
それを、心理学者は、予想がつかないのである。

人それぞれの、連想が人の心理なのである。

理論家たちのなかには、自己の主題を生体内に閉じ込め、もっぱら内部世界にかかわろうとする傾向をさして、心理学者を広場恐怖症だときめつけるものがある。彼らに言わせると、なおざりにされている環境も、生体と同じかかわりをもつ地位を認められるべきであるという。しかし、それは全くの「お門違い」である。自己監禁ということは、従来からほとんどなかった。反対に、多くの心理学者たちは、その本来の領域から亡命はしないまでもふらふらと離れてしまい、彼ら自身の心の内部的な歴史や地理、そしてその動植物相と関係のないものでありさえすれば、何でもそれを探求しようとしてきているのである。
コーエン

おそらくこの理由から、人間の心についての一応まとまりある考想も、それが現代アカデミックな心理学から出てきたものであるかぎり、不完全なものと思われる。
コーエン

この、アカデミックな心理学とは、心を、ある種の「客観的」な知識を獲得するための、知的な道具とし、感情、情動、そして動因は、知的な働きを動機付けたり、妨げたりする要因であると、考えている。

その、考え方を構成しているのは、論理的、数学的、あるいは、科学的思考を支配していると、想像される特徴だけであり、これらの特徴だけが、文明化された人間の、真の特徴だと、信じられているからだ。

今は、コーエンの、解釈を述べている。

われわれの環境についていわゆる「客観的」に正しい知識を提供しないといわれるさまざまの特徴は、劣っているとか、人を惑わすものだとかの汚名を着せられる。完全に無視されないまでも、それらは単に主観的であるとか、前論理的または前科学的な思考として片付けられ、その妥当性を否定されている。こうしてすべての経験が、経験の限られた側面にだけしか適当しない規準によって判断されるのである。
コーエン

非常に、饒舌なコーエンの論文である。
そして、また、その解釈に関しても、それぞれの観念のままに、解釈されるだろう。

経験の限られた側面にだけしか、適当しない規準によって、判断される・・・

限られた側面とは、心理学の観念である。
揺ぎ無いと、信じられる観念によるものである。

百年前の、観念を、後生大事に守っている人たち・・・

わたくしが示唆したいと思っている心理学の課題は、主観―客観の対立命題を解決して、意味に満ちた経験の世界を照らし出すことである。これを成し遂げるには、われわれの二つの基本的な問いからなる両刃の剣が必要である。
心理学的なものは、こうして「客観的なもの」とされ、またいわゆる「客観的なもの」は、究極のところ心理学的なものであることが認識されるであろう。
コーエン

心理学とは、言わないのである。
心理学的・・・

科学とは、宇宙の起源を説明しようとする、真剣な企てと考えられる、原始的な神話があり、それが科学に取って代られることは、確実である。
しかし、神話の多くは、その時代遅れの前科学性にもかかわらず、残り続ける、美しさと壮大さを備えている。

心理学も、そうであろう。

次に、キェルケゴールが、
想像力とは、神の摂理が、人間を現実のなかに、生存のなかに引き入れるために用いるものであり、人間をそこから必要なだけ取り出したり、取り入れたり、さてはまた生存のなかに引き下ろすために用いられるものである。しかも想像力は、人間が行こうとするところまで連れ出してくれるが、そのときこそまさしく、そこが現実の始まる場所なのである。
と、言う。

想像力の無い、またそれの、欠落した心理学者が、それを理解できないのである。
お勉強という、暗記の心理学用語の学習では、如何ともし難いのである。

分裂した人間の、妄想も、想像力になるのである。

更に、あらゆる、人間にまつわる想像力・・・
それを、心理学用語で裁くとき、イエスの言葉のように、あなたが裁いたように、あたなも裁かれるという、ことになるのである。

コーエンの、心理学の一つの見方は、実に、示唆に富んだものである。
当時は、少数派であったが、今は、どうなのか・・・

いずれ、また、コーエンの、人間性の心理から、引用して、話しをする。

哲学は、論理学への深い関心がみられるように、心理学も、哲学への、深い関心があって、成り立つ。
既存の心理学用語に、振り回されるような、心理学の学びをしても、せん無いことなのである。

そして、分析に明け暮れるものは、同じように、分析される。

分析に溺れた心理学者は、時代に流され、何も提案することなく、去る。
心理学が、ある程度、有意義に生かされるのは、精神医療の臨床によると、思われる。

心理カウンセラーなるものの存在は、全く、意味不明になる。
最も、臨床心理士というものも、観念まみれの分析に溺れる者、多々あり。

私は、霊学を書くために、心理学を通っている。
この、霊学は、私の想像力である。

キェルケゴールが言うように、霊学を歩み始めたとき、現実が始まる場所となるのである、私には。

それでは、次に、無意識の世界を見る。



posted by 天山 at 05:51| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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