2012年08月05日

神仏は妄想である。381

現世利益の祈りは低級で排撃すべきだとの論は、単にカッコよさだけを競うタテマエ論にすぎない。民衆の宗教生活というのはいかなるものであるかを、頭から考えようとせず、まったく無視している砂上の楼閣的な論である。
道教と日本人 下出積與

そして、
道教のもつ現世利益の祈りは、宗教を民衆が生活化していくのにいかに大きな働きをしたことであろうか。日本の民族信仰である神祇信仰に、いかに多様な展開を提供したことであろうか。民衆の生活に視点をおくかぎり、神祇信仰への道をたどった道教信仰を無視することはできないのである。
と、なる。

確かに、仏教も、結局、現世ではなく、来世の浄土への転生を目指したものであるが、何と、病苦、貧窮などにある人たちに、現世利益として、薬師如来、観音菩薩などの、信仰が生まれている。

現世否定の仏教が、結果的に、民衆には、現世利益の信仰として、受け入れられたのである。

日本の、神祇信仰に似た道教が、日本の民族信仰の中に、入り込むのは当然であったといえる。

最初、仏教は、集団のものとしての性格が強く、護国のために、取り上げられた。しかし、個人的な祈りになると、俄然、道教的要素が強くなるのである。

いかに、道教が日本の信仰の中に、そして、更には、そのベースの中に、取り込まれたか、知れないのである。

否定の仕様が無い。

私が、最も恐れるのは、日本独自の、信仰、神道というもの・・・
実は、道教が入り込んでいるのである。

シントーは、日本の伝統です、と、言っても、神道家でさえ、それを知らないという、愚である。

更に、恐ろしいのは、天皇即位の儀式の中にも入り込んでいるという、事実である。

道教に影響を受けなかった、神道は、何か・・・
それこそ、私が古道と呼ぶものである。

江戸時代の、国学者、神道家・・・
彼らは、知らずに、道教の概念を使い、国粋と、神道と、更に、奥義なるものを説いている。

まさに、妄想の所以である。

それも、大陸の迷信から、取り入れた、民衆道教のものである。
更に、老荘思想が、成立道教の根幹であることを別にして、研究していたのである。

つまり、民衆道教という、色のついた水が、日本の水の中に、浸透していったということだ。

勿論、時を経て、それが、日本の伝統といわれるべきではあるが・・・
それを意識しているのか、していないのかは、天地の差がある。

すでに、日本書紀の中にも、それとは気づかず、道教的お話しが登場しているのである。

聖、とは、ひじりと読む。
それは、道教の、真人の、ひじり、と同じである。

更に、平安時代などで、聖といわれた人を、皆、僧侶のことだと、考えるが違う。

真人とは仙人形を変じて天に登るなり
説文

聖は、神仙のことなのである。
こうして、隠されてきたのである。

聖徳太子という、仮説の存在も、道教から生まれたものである。
その後の、聖徳太子の様々な、奇想天外な物語は、さまに、道教からのものである。

日本史にあって、文字を理解するのは、貴族に象徴される、現代では、知識人、文化人であり、当時の学者や、僧侶、地方の豪族、中央へ出て宮廷に関わる人たちなどである。

その中にあって、神仙思想が歓迎された意味は、神仙思想というより、歓楽肯定である。神仙は、超人間だが、歓楽は、人間のものであるからだ。

そして、空海である。
彼の書いた、三教指帰、というものには、道教、儒教、仏教の優劣を論じたものである。

その中で、道教について書かれた一説に、
お前たちに、不死の神術と長生の秘密とを教えよう。かげろうのように短い命が、鶴や亀のように長命になり、駄馬の遅い足が翼のある竜のように速くなり、八人の仙人の仲間になって、昼は東海の三神山の銀の御殿で一日中楽しく遊び暮らし、夜は夜で東方の五つの名山の黄金の御殿をめぐって、夜を徹して遊べるようにしてやろう。

この空海の、神仙論は、当時の貴族たちの、神仙思想に対する、理解度を示している。

ここでは、不死の神術、長生のための秘密という、現世主義と、終日遊楽するという、精神的優美性、耽美性の追求である。

更に、道教的なものは、貴族の天皇に対する、奏上文、天皇の臣下への勅書などにも、多く使われていたということである。

また、驚きは、僧侶の書くものにも、大きな影響を与えていることである。

これは、どうしたことだろうか。

このように、現世主義の強調といっても、それは現世の否定ないし憂視が極まって、逆に、現実的傾向を肯定しようという態度から生まれたものではけっしてなかった。むしろ、本来現実的なものがさらに度を深めて、従来以上に、生活様式の豊富さと変化を求めようとする態度から生まれてきたもの、といったほうがよいであろう。
下出

いつの時代も、そのようである。
今まで以上に、生活様式の豊かさと、変化を求めたいという、人間の欲求である。
それに、道教の考え方が、入りやすかったのである。
恐るべき、道教である。




posted by 天山 at 01:23| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。