2012年07月08日

神仏は妄想である。378

道教の、方術は、医術とならび、重要な内容を示す部門である。

目標である、神仙になるための、方法を、人間の肉体から追求するのが、医術だとすると、人間の存在する、自然の側から求められたのが、方術である。

神仙の定義は、自然の理にかない、生老病死を超越して、あらゆる自由を獲得した、全能の存在である。

それゆえ、方術は、神仙になるための、最も基本的な条件となる。

しかし、容易に自然の理にかなうことは、できない。そのためには、色々な難しい手続きを取る必要がある。

この、手続きを、方術という。

しかし、自然の理にかない、生老病死を超越するという考え方は、実に矛盾している。
自然の理にかなうことは、生老病死を生きることである。

理にかなうというより、非常に、傲慢であるということに、気づかないのである。

これを、真っ当に信じるとは、どこか、狂っている。
更には、誇大妄想というしかない。

方術の目的は、神仙になるための、手段である。しかし、神仙になれずとも、一時的にせよ、神仙同様の能力を獲得することが、必要だったのだ。

研究家は、書く、
方術というのは、方法がまことに複雑怪奇で、内容的にもまったく不可解で神秘的なものになっていくのである。

そして、その神秘性・・・
その元が、老荘思想なのである。

だが、実は、方術の、権威づけのために、後になり、哲理として、老荘思想を取り付けた。あるいは、こじつけた、のである。

簡単に言えば、老荘思想とは、何の関係もないのである。

偽書など、朝飯前に、書いてしまう、大陸の民族性であるから・・・

さて、方術は、三つに、分けられる。
一つは、禁呪、きんじゆ、呪禁、じゆごん、ともいう。

災いを避け、長生きをするための、まじないや、呪文、そして、守るべき禁忌で、これを犯せば、災いを蒙ったり、短命に終わるという。

更に、吉凶の判断、預言、星占いもある。

次ぎは、神符である。
災いを逃れ、病気を治し、妖怪変化、鬼神の祟りを消滅する威力を持つ。

今で言えば、お札である。

更に、面白いのは、退散、消滅させるだけではない。
鬼神を自由に駆使する力もあるという。

これが、日本の陰陽師に使われたのである。

そして、一つは、斎礁と、科儀である。
禁呪、符に威力があるのは、元始天尊、つまり、皇天上帝以下の、多くの道教の神々の加護によるものである。
その神々へ、壇を設けて、願文を捧げ、ひたすらに、祈ること。
その祭祀の儀式などを、科儀という。

それは、成立道教の眼目である。
民衆道教は、それがなくてもいいのである。

現在でも、アジアの国々の、中華系の人たちは、床に、元始天尊を祭るのを、よく見る。

ここで、面白いのは、道教は、一神教ではない。
多神教である。

最高位に、元始天尊が、存在するが、その他、多くの神々が存在するのである。

老子も、荘子も、神の一人である。

道教は、実に、深いものだとは、言わない。
滅茶苦茶なのである。

それを、成立道教は、老荘思想に帰結しているのである。

根拠としての、老荘思想である。

勝手に、作り上げたものを、老荘思想に、こじつけて、体面を保つという・・・

勿論、すべてが、迷信として、跳ね除けることは、出来ない。中には、現代でも、有効に生かす事が出来るものもある。

だが、それ以上のものは、妄想以外の、何ものでもない。

老荘の無為自然を生きるならば、それらの、方法は、必要がない。
心の欲するままに、人生を楽しむことであり、何か、特別な修行や、訓練などは、否定しているのである。

以前に、少しばかり、禅の時に、説明した個所を、読み返して欲しい。

禅にある、厳しい修行も、否定するのである。

楽しく食して、楽しく性行為をして、自然に近く生きる、無為自然である。
いずれ、死ぬ身であるから、心を、流して生きてゆくことなのである。

不死身になるなどとは、一切言わないのである。
そして、不死身とは、自然に反する行為である。
全く、老荘思想と反対のことを、道教、特に、成立道教は、教える。

成立道教は、宗教である。
それこそ、魑魅魍魎の素である。
人間の、妄想の限りなさを、見るものである。



posted by 天山 at 00:04| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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