2012年07月04日

神仏は妄想である。375

得体の知れない、修験道である。

様々な、研究家が、修験道に関して書いているが、それが的を得ているというものは、無い。
それぞれ、修験道の一部をのみ、取り出して、解説している。

今は、道教に関して書いている。
そこで、その道教の、民衆道教に、非常に似たものであるという、見解を私は持つ。

学者の中には、修験道とは道教の日本版である、という人もいる。

また、しいて言えば、日本の民族信仰である、神祇信仰に仏教をはじめとする大陸伝来の諸信仰が結びついて、長い間に日本の風土にとけこんで生まれてきた日本独自の宗教である、と言う。

それでは、何が一体、中心的要素なのであるのか・・・

今までの、研究から、三つの、意見がある。
一つは、仏教的なもの。特に、密教とする説である。

それは、神仏習合の一つのタイプであり、中心は、神祇信仰の中の、山岳信仰と、仏教の中でもっとも教義作法が、分化発展している、密教であるということだ。

宗教的に見れば、原始的なものと、高度なものとの、結合ということになる。

修験道が、陰陽道的要素が多いのも、密教が基調になったことの、必然的結果であるとする。

もう一つは、密教の持つ仏教的要素と、陰陽道的要素が目立つが、それらは、表面を服飾しているのにすぎない。
その本質は、原始宗教の、呪術、巫術であり、その信仰に他ならないという。

日本の民俗信仰を、本質にするということから、密教を基調とする考え方から、対立するものである。

そして、もう一つは、山岳に登山修行することから、異常な験力を獲得することであり、その力を得たものに帰依する、信仰するというもの。

結論を言えば、神祇信仰と並び、日本人の持つ、現実肯定の論理の具体化された、宗教とみるべきなのではないか、ということだ。

さて、陰陽道、五行説などは、中国で生成発展したが、それらは、大陸では、陰陽道にならなかった。日本のみが、陰陽道として、成立している。

そこで、その陰陽道と修験道に共通するのが、呪法である。
陰陽道が密教に結びつき、その密教を取り入れて、形を整えたのが、修験道となったと、考えられる。

実は、呪法は、奈良時代に、禁断された呪禁が、公認されている陰陽寮の、他の方術に寄生して、平安時代以降の、陰陽道を確立していった。

そこで、修験道は、陰陽師の方術に寄生するのではなく、禁止されたものを、受け継いで、平安時代を通して、地方の民間信仰の中に、溶け込んだということである。

ある、研究家は、
修験道にみる陰陽道的呪術は、密教を通し間接的摂取ではないか、との意見である。

しかし、陰陽道も、修験道も、確実に、民衆道教に、影響を受けているというか、それによって、教義、あるいは、行為を形作ったものであると、言える。

これは、他の文化的行為にも、言えるが、仏教的、儒教的という、表面に対し、裏面では、道教の影響が、脈々と伝わっていると、思われる。
更に、儒学もあるが、老荘思想は、日本の知識人たちに、大きな影響を与えた。
しかし、それが、即座に道教として、認識されたのではない。

あくまでも、老荘思想として、である。

だが、道教は、大陸では、老荘思想が、中心の経典になっているのである。

そこで、私は、修験道に関して、研究という意味では、抵抗が無いが、その実態に関しては、否定する。
何故か。
山岳にての、修行という荒行には、性格の偏向、偏狭が付きまとうものである。

更に、甚だしい、妄想と、蒙昧である。
肉体の業により、つまり、肉体を痛めることによって、何か特殊な力を得るという、考え方には、賛同できないのである。

学問として、色々と、分析するのは、問題がないが、それを行為することに、問題がある。

要するに、社会と隔絶された場所にての、信仰とは、そのまま、社会と隔絶されているのである。

そして、更なる迷信を生み出し、人々を、惑わせるのが、関の山である。
本人は、自己満足で、いいが、それを対人として、行為することは、迷惑千万である。

私としての、結論は、矢張り、得体の知れないものなのである。
そして、得体の知れないものは、危険である。

社会と、隔絶されたところで、精神疾患に陥り、手のつけようの無い者を、特別扱いして、とんでもない目に遭うのが、関の山である。

彼らを、日本の民間信仰を云々という、分析は、正しくない。
日本の民間信仰は、太陽信仰であり、明るいものである。
山岳という場所は、また、その修行は、決して、明るくないのである。

得体の知れない、魑魅魍魎を相手に、自己満足に陥り、更には、性格を破壊させる者も、多数いるのである。

そして、彼らが、相手にしている、神仏というものが、あるならば、それは、神仏とは、言い難いものであり、明るい昼間には、決して出てこないものである。

陰陽師の真似をし、密教という、偽の仏教の加持祈祷の真似をして、民衆をたぶらかすのが、関の山である。

正に、彼らの神仏、その他の、霊威というのは、妄想に他ならないのである。

そして、道教的なものからの、教義を取り入れているものもあり、矢張り、得体が入れないものである。




posted by 天山 at 23:59| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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