この天皇にも、お子様がいらっしゃらなかった。
そこで、大伴金村は、皇室の御血統を四方に求めた。
そして、現在の福井、越前から、応神天皇五世の孫である、オオトノミコトをお迎えする。
継体天皇である。507年から531年。
その皇子が、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇である。
第二十九代、欽明天皇の13年、百済の聖明王から、仏教を伝えてきた。
王の使者が、持参したのは、釈迦仏の金銅像一体と、経文である。
手紙が添えられていた。
仏教は、諸法の中でも、最も優れた教えです。遠く天竺から、三韓まで、すべてこれを尊んでいます。謹んで、日本へもお伝えします。
天皇は、大変、喜ばれた。
しかし、それをそのまま受け入れてもいいものかと、群臣を集めて、お尋ねになった。
大臣の蘇我稲目が、
すでに西の諸国が信仰していますなら、わが国だけが信仰してはいけないということは、ありません。
と、言う。
大連、おおむらじ、の、物部尾輿と、中臣鎌子が、
わが国には、昔から、春秋四季に、お祭りしている天地の神々があります。今、外の神を拝むのは・・・
と、反対である。
中臣は、代々、神々を祭る役目であった家系である。
蘇我氏は、竹内宿禰の子孫である。
度々、朝鮮諸国と、交渉の任に当たっていた。
天皇は、
それでは、仏像は、望むものに授けて、お祭りすることにしょう。
と、稲目に、賜わった。
稲目は、家に安置して、礼拝した。
やがて、向原の家を寺として、そこに移す。
ところが、まもなく、国内に伝染病が流行し、死者が次々と出た。
尾輿と、鎌子は、それは、仏像のせいであると、天皇に申し上げた。
日増しに、死者が出ているゆえ、天皇も、その意見を聞き入れた。
仏像は、難波の堀江に投棄し、寺は、灰になった。
ここから、蘇我、物部の不和、対立が、決定的になっていったのである。
それから、18年後、稲目が、死んだ。
その間に、仏教の伝来の前年に、百済の聖明王は、高麗、高句麗を討ち、漢城の地を得て、更に、平壌を討ち、六郡の地を取り返していた。
だが、仏教伝来の夏に、百済は、日本に、援軍を求めてきた。
高麗と新羅が連合して、百済と任那に大攻撃をかけて、滅ぼそうとしているというのである。
百済の失地回復が、新羅の攻撃で白紙になった。
更に、聖明王の子が、翌年の春に、日本に仇を捕って欲しいと、言ってきたのである。
だが、それから、七年目の欽明天皇32年1月、任那の日本府も、新羅によって、亡ぶ。
その六月、無法であるとして、新羅征伐の詔、みことのり、が下る。
七月、日本府の回復のために、紀男麻呂を主将とし、カワベノニベを副将として、新羅に派遣される。
ところが、カワベは、主将の命令を聞かず、勝手に兵を進めたために、勝ち戦だったが、破れたのである。
蘇我稲目が、死んで、二年目、第三十代敏達天皇が即位された。572年から585年。
その年、大臣になったのが、稲目の子である、蘇我馬子である。
最高位の大連には、物部守屋である。
馬子は、仏像が欲しかった。
ある年、百済に向かった使者が、一体の仏像を持参して、帰国した。
馬子は、それを譲り受けて、寺を建て、高麗の僧、慧便を招いて、三人の女を尼として、礼拝させた。
すると、また、伝染病の流行である。死者も続出した。
またも、守屋と、鎌子の子の、勝海と、朝廷へ申し出る。
二代も続き、悪い病が流行し、多くの人が死んでいます。これは、蘇我氏が仏法を信じているからではありませんか。
それでは、と、朝廷は、詔を下した。
仏教を禁じたのである。
守屋が、先頭に立ち、寺を焼き、仏像を捨て、愚か者の馬子と、辱めたのである。
馬子の恨みは、強いものだった。
まもなく、天皇も、伝染病にかかられた。
そして、馬子もである。
天然痘と言われている。
馬子は、天皇に申し出た。
私の病は、仏の力に頼らなければ、治りません。どうか、仏を・・・
天皇は、
それでは、お前一人で、仏法を行うことである。
と、仰せられた。
まもなく、馬子は、回復し、天皇は、その後二ヶ月ほどで、お隠れになった。
敏達天皇14年8月15日である。