2012年05月18日

霊学61

心理学の、もっとも新しい「類推的」な研究方向のなかに、特に目につくものが二つある。知的発達に関するピアジュのきわだった学説は、「発生学的」心理学といってよかろう。この説は心的構造の出現と発達および成熟を、発生学者が身体構造の発達を記述するような仕方で跡づけるからである。
ピアジュは動物学からその研究を始めた人である。彼は自伝のなかで、動物学で得た心の習慣は、彼が心の研究に転じたときもよく役に立ったと語っている。ここで彼は「一種の知識の発生学」を発見したのである。
コーエン

実に、面白いことである。
別の部門からの、心理学への、挑戦が、新しい画期的な心理学理論を生み出すという・・・

最初から、心理学に取り付かれると、視野の狭い、心理学至上主義になる。
そして、世の中に、心理学用語を多用させるようになり、更には、それが、混乱を引き起こす原因になる。

心理学を信じてしまう人たちに、多い。
その分析をもって、すべてを知っていると、勘違いする人たち。

心理学の専門家を、マスコミが上手に使えないこともある。

ライオネル・ベンローズ教授が心理学に導入した「伝染病学」からの類推にもまた、一方における感染の伝播と他方観念の伝達との間の類似に基づいた、かなりの関心をひく新奇な考え方がある。身体的な伝染病学における三つの主要な要因、すなわち、感染源、伝播の媒体、およびこれにさらされた住民の感受性に対応して、心の伝染病学には、1、観念の質、2、伝達のいろいろな媒体、3、受け手の心の状態がある。このような心的伝染病は、熱狂、流行、信仰の復興運動、戦争熱、ダンス熱とか、学界の成長の形で現れるであろう。
コーエン

これで、宗教、カルトなどの、心理学的アプローチが出来る。
このような、教養が、脱洗脳などの、手法に生かされるはずだ。

この分析により、数多くの宗教の、誤りも、指摘することが、出来るようになる。
更に、逆に、宗教の拡大路線に関する、考察もである。

更には、商法に関する、アプローチもある。
心理学が、人間の生活全般に渡って、如何様にも、利用できるものになるのは、その心理学以前の、教養である。

心についての「経済学」は、意識を一定量の物理的エネルギーの生産と分配と消費によって統制されるものとする、フロイト流の考え方に明らかにみられる。この統制は、最小の努力で最大の利益を得ようとする経済学的な原理に従うものとされる。この観点はいろいろな心的現象を説明し理解するのにあずかって、きわめて大きな助けとなることが明らかにされてきている。
コーエン

この時代に、明らかに、されてきているというのだが、現代は、もっと明らかになっているだろう。
更に、細分化して、心理学の、あらゆる分野で利用されているはず。

意識を、物理的エネルギーの生産と消費と、捉える考え方は、実に有意義だろう。
それを、心的現象を説明する方法にする。

それが、説得力を持つのである。

だが、これは、あくまでも、心理学のみに限る。
それ以上の分野、例えば、精神病理学などと、一緒にしないことである。

今は、心理学というものの、定義である。

限りなく、学問としての、心理学であり、占いに似たものではない。
つまり、簡単に人の心理を分析するな、ということである。

コーエンは、最後に、と、
「神経生理学」があるが、これは心についての類推の完全なよりどころと考えられるまでになっているものである。
と、言う。

これは、主観的経験のあらゆる形式、つまり、意識、意志、感情、情動、欲望、思考など。それは、単なる副次的現象であり、それを「科学的」に研究するためには、神経生理学にあますところなく「還元」されなければならないのである。
と、している。

ところが、心理学的世界がそれみずからの権利で、そして自身の言語でもって研究されうるということを否定しているのは、じつは神経学者ではない。罪があるのは、ラッセル・ブレーンが、「自身の心の非存在をこと細かに説明することで生計を立てている」と表現した哲学者たちにそそのかされた、自称「心理学者」たちである。
コーエン

現在も、この自称心理学者が、多く、世に憚るのである。
大学で、心理学を講義しいてるから、心理学者なのではない。

彼らは、誰かの、考え方を、伝えているだけである。
それなのに、心理学者であると、信じている。

教訓的なことは、フロイト自身が、初めは生化学的な、そして神経生理学的な還元主義に傾いたが、後にこれをやり遂げる望みを棄てて、純粋な心理学である彼の体系を発展させたということである。
コーエン

それは、心の研究は、大脳の解剖学的研究から完全に分離されなければならないということである。
と、なるのである。

大脳の解剖学的研究・・・
それは、精神医学によって、生かされるべきものである。

すでに、脳と、心との区別を持っていたということである。
つまり、脳は、心ではないのである。

フロイトは、平衡の考えを、自己の体系の基礎に置いた。
それは、クロード・ベルナールが最初に、示唆した、平衡の概念である。

ベルナールの、還元主義が、心理学に持ち込んだものである。

ベルナールは、身体が安定した状態を維持しようとする傾向をもつという、意味において、厳密に生理学的なもの以上の意味をそれにもたせようとしたのではなかった。フェヒナーが、その「恒常性の原理」において、この平衡の概念に心理学的な内容を与えたのである。

そして、デルブフが、「緊張の法則」として、生体が適応している最適な刺激水準の何らかの変化によって、平衡の喪失が起こると述べて、これと、緊張―弛緩の連続をあげるヴィトンの説と、同じ言葉を少し変えて、述べたものである。
と、いうことだ。

1895年、フロイトが、プロジェクトに、慣性の原理として、現れたものが、後に、快原則となり、それは同じ考え方である。

平衡の原理は、それが起こってきた生理学でどんな価値をもとうとも、恒常性、安定性、ホメオスタシスあるいは負のフィードバック、その他何と呼ばれようとも心の領域におけるその説明的価値は限られている。個人的行動、あるいは社会的行動いずれについても、完全な説明を与えることはできない。それは、安定性と、変化に対する抵抗という重要な要素を言い表すのには役立つが、不安定性と変化への衝動が人間の生活において果たす役割については何事も伝えはしない。
コーエン

これは、とても、大切なことである。

人間の行動は、恒常性に対してまさに対立命題となる原理を認めずには理解されない。
コーエン

つまり、人間は、いつも、不動ではない、不安定であり、更に、多くの衝動を抱えて、それが、行動を促すのである。

更に、人間は、今までの殻を破り、新たに、生まれようともするのである。

コーエンは、実に烈しい否定と烈しい言葉で、過去の研究を裁断する。

行動を説明しようとする、還元主義者は、人間の、恒常性の原理ではないと、言う。

そして、還元主義に対して、決然として、反論する。

人間は、人生において、不安定を求め、更に、平衡を去ろうとする。
つまり、観念の枠では、捉えられないものなのである。

コーエンは、心理学を学ぶ前に、として、延々として、過去の心理学に対する、蒙昧を叩き潰しているのである。
だから、もう一度、コーエンの最初の、心理学に対する、烈しい、書き込みを読み直して欲しい。

まだまだ、コーエンの文を続けるが、私は、心理学が、時代と共に、変転して行く様を見る。
過去の事例が、必ずしも、現在に当てはまるのではないということ。
その観念により、人を分析するのは、誤りであると言うことだ。

心理学が、学問として、認知されるならば、学問に必要な、進化し続けなければならない。

日本の心理学者のように、文献を紹介して、少しばかり何かを付け足して、終わるようなものではないのである。

人間は、常に、新しい者なのである。
平安時代の、物の怪を笑えないのである。

100年後に、現代の心理学が、平安時代のもののように、笑われる・・・かも




posted by 天山 at 06:52| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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