2012年04月10日

霊学54

これから、小此木氏の、文章を多く引用して、心理学、精神分析などに従事する人たちが、如何に、このように作られた観念により、患者や相談者をくくってしまうかということを、示したい。

勿論、私は、小此木氏の、業績には、敬意を表している。
だが、鵜呑みにすると、先が無いということ。

心理学に対して、批判が少なすぎる。故に、心理学者は、その勝手な、しかも一部の分析により、その観念により、人を判定してしまうという、誤りを言う。

操作原則は、やがては、ロボット問題が象徴するように、人と人とのかかわりを社会から排除していきます。
小此木
これは、あまりに、大雑把である。

しかもそれを操作する人々は、すべて一人相撲的に、あるいは自己中心的にパーソナルなその操作を行います。このような操作原則感覚が身に付くにつれて、われわれの自然と人間それぞれに対するかかわりのすべてが自分たちの思い通りに操作しうるようになるべきだという全能感が身についてしまいました。
たとえば、この操作原則感覚は、逆に人と人とのかかわりまでも、自動応答機械とのかかわりと同じようなものにしようとする気持ちさえ生み出すことになってしまいました。
こうした生活感覚の大規模な変容が、人類全体としての全能感を高め、何でも思うとおりになるという自己愛幻想を肥大させているのです。
小此木

ほんの一部の、世界、先進国などを、人類、世界全体・・・
更に、ほんの一部の都市生活をする人たちを、全体として分析する。

これを鵜呑みにして、判定するとしたら・・・
実に、恐ろしい。
勿論、一部の人には、そのような兆候があるだろう。

これが、あの大航海時代の、イギリスと同じ考え方である。
そして、大差別の思想を作ったのである。

自動応答機械・・・
それを利用して、本当に、人間がそれほど、変容するものだろうか。
考えすぎである。

それは、時代性、時代の進化であり、それに多くの影響を受けるが、病気の人たちとの、かかわりが多い人の、一片の考え方である。

人と人の関わりが、変容して、人と人との関わりが何か、変なこと、変なものになってきたという・・・それが、変である。

ほんの一部の人たちが、影響されて、そのようになっていることを、人類が・・・

人類全体が全能感を高めてなどいないし、この日本にも、全く、そのような感覚を持たない人たちが大勢いる。

例えば、自然を相手にする人たちなどは、何を言うのかと、言うだろう。
思い通りに行かないことばかりだと、言うだろう。

更に、サービス業など、そんな考えでは、客の心を掴むことなど出来ない。
と、一部の世界で、観念を作ることが、恐ろしいのである。

家庭内暴力、登校拒否という子どもたちの問題も、自己愛の肥大がもたらした弊害です。
小此木

どうして、このように、断定できるものか。
それは、ほんの一部の子どもたちの、ことだろう。

それに関して、小此木氏は、延々として、解りやすく説明するが、省略する。

時代の一断片を取り上げて、ここまで、観念を作り上げる、学問という世界にいる人に敬意を払いつつ・・・
少しばかり、呆れる。

父親に対しても、家庭での父親のだらしないところばかりを見ていて、彼らは父親を過小評価している場合が多いのです。そして、人が朝早く起きて会社に行ったり学校に行ったりするという定め、現実のいやなものを我慢したり、断念して生きていくという現実原則を認めようとしないのです。
小此木

これで、判断された、低血圧の子どもは、悲劇である。
現実原則が、低血圧で、朝が起きられない・・・

私は、幼稚園の頃から、遅刻して来たといい、自己嫌悪している相談者に、低血圧でしょう、しょうがいなよ、と言った途端、えっ、それでいいんですかと、問われて、それでいいと言うと、その人は、晴れやかな顔になり、私が自分の体質を理解する方が、最も大切で、その自分に合う環境で、学んだり、仕事をしたり、するといいと、言った。

朝が駄目なら、夜間の学校もある。

その説明が、延々と続くのは、小此木氏の、性格であろう。

古い執行原則でいえばもともと学校へ行くのは、おもしろいからおもしろくないからというのではなく、人間である以上は行かなければならないところなわけです。
小此木

時代は、変わったである。
進化したのである。
だから、アホだった人が、立派に成功する時代に成ったのである。

古い、と書いているように、小此木氏の、分析も古いものになったのである。
30年前は、この、お説に従って、多くの人が、理解したと思い込んだのである。

心理学というのは、言葉の手品であり、思い込ませるのである。

人間性の心理という、ジョン・コーエンの書いた本の最初に、
心理学は今日、非常に興味をそそられる段階を通過しているところであるが、そこでは、仰々しい学説やドグマや硬直した公式などが、心理学の主題の真の範囲とその本性についてのより深い認識にゆっくりと道をゆずりつつある。
心理学がその歴史的な発展の途次において乗り越えねばならなかったさまざまの困難は、植民地としての立場を放棄してこれまでの帝国主義の君主の支持なしに自身の足で立とうとしている国の困難にたとえられよう。

長い間、心理学は哲学の植民地であった。
そして解放の戦いの後困苦に耐えてかちえた自由を手にしたとき、心理学は後を振り返ってみたりする必要はなく、完全に哲学なしにすますことができるものと信ぜられた。しかしながら、これはあまりにも楽天的にすぎる夢であることがわかった。
哲学によって支配されるべきではないということと、哲学上の先入観が心理学の理論と実際に入り込むのを拒むこととは、全く別のことがらである。

心理学は、おそらく他の諸科学よりもなおのこと、いつも哲学とことばを交わす間柄にとどまらなければならないであろう。というのは哲学と心理学とは、知識の起源に関して(認識論)、論理学と数学の直観的基礎に関して、心の本性について、倫理学と美学の諸問題について、そして組織的な探求の方法に関して、共通の関心を分かちもっているからである。

改行は、私。
次ぎに、続ける。




posted by 天山 at 06:06| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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