2012年04月07日

天皇陛下について107

日本武尊
やまとたけるのみこと、とは、有名である。
おおよそ、古代史を知らない者も、名前だけは、知っている。

その本当の名は、小碓命、おうすのみこと、である。
第十二代、景行天皇の第二皇子である。

その時代、九州に反乱が起きて、小碓命が、鎮圧に赴く。

有名な伝説が、熊襲の国の、首魁川上梟帥、しゅかいかわかみのたける、の退治である。

日本書紀によると、はじめは、天皇が赴かれるが、平定を見て、各地を巡幸して、大和に戻られる。
しかし、熊襲は、再び背くのである。

そこで、小碓命の出陣となった。
命は、童女に扮して、梟帥に近づき、酔ったところを、刺す。
絶命間際に、命の勇武に感嘆して、
やまとたけるの皇子と名乗りたまえ、称号をたてまつるのである。

そこで、日本武尊、やまとたけるの尊と、呼ばれるようになった。

尊が、大和に戻ると、今度は、東の辺境の騒動があった。
天皇は、第一皇子の、大碓命に、鎮圧を命じるが、大碓命は、愕然として、草の中に逃げる、とある。

是非も無しと、尊が、出発する。

吉備武彦、大伴武日連が、付き従う。
その道すじには、伊勢神宮があり、斎主は、叔母の、倭姫命である。

尊は、倭姫命に、
東に往き、その地を騒がせている者どもを、鎮めに参りますので、おいとまごいに、上がりました。
と、挨拶すると、斎主は、
慎むこと、そして怠ることのないように、
と、お言葉を掛ける。
そして、天叢雲剣、あめのむらくものつるぎ、を授けられた。

それから、駿河の国に入り、賊に欺かれ、鹿狩りのため野の深いところに入れられて、火攻めに遭われた。
その時、倭姫命から頂いた、剣で、周囲の草をなぎ払い、火難を免れた。
そして、賊を退治するのである。

草薙の剣という名の、おこりであり、土地も、焼津と呼ばれた。

次ぎに、尊は、相模に至り、対岸の上総の国に、渡ろうとした。
尊は、海岸に立ち、上総の山が近くに見えるので、なんだこれしきの海、飛んで渡れるくらいではないか、と高言した。

この言葉が、難を呼んだ。
船出し、走水の海、現在の東京湾頭を渡ろうとされた時、暴風雨が起こる。

船は、滝のように落ちる雨と、大波に翻弄されて、難破寸前である。
尊は、人知の限界を思った。
そして、倭姫命の、言葉を、思い出した。
慎み、怠りなく・・・

船には、尊の后が同乗していた。
弟橘姫、おとたちばなひめ、である。

后は、私が海に身を投げて、尊の身代わりになり、海神の御心をなだめましょうと、海に身を投げ入れたのである。

やがて、暴風雨は止み、岸に船が着いた。

尊は、上総へ上陸され、常陸を通り、陸奥へ向かう。
その時も、海路を通った。

船には、大鏡が掲げられ、威風堂々と浦から浦へと、進む。

やがて、蝦夷へ辿りつき、それらの地方を、ことごとく平定する。
そして、帰路は、陸路を通り、常陸から、武蔵に出て、相模の足柄山に出た。

その時、尊は、これで東国も見納めと、振り返り、御覧になると、相模の海が、陽光に光る。来るときは、后と一緒だったと、尊は、思わず、
吾妻はや・・・
と、嘆息された。

わが妻よ、である。
東国を、あずま、というのは、これから始まった。

古事記には、尊の歌が、記されている。
さねさし 相模の小野に もやる火の 火中にたちて 問ひしきみはも

焼津の猛火の中で、私の安否を労わられ、尋ねられた、そのやさしい、姫よ、わが妻よ。

その後、七日後に、后の櫛を海辺に見つけ、その櫛を取り、御稜を作った。

そして、尊は、甲斐の国に入り、酒折宮に留まった。
ある夜の、食事中に、
にひばり 筑紫を過ぎて 幾夜が寝つる
と、歌で、お傍の者に、問うと、火焼の老人が、
かがなべて 夜には九夜 日には十日
と、答えた。

尊の歌は、片歌と呼ばれるものである。
この場合は、それに続けて、一連の問答歌となっている。

尊は、老人を誉められて、東の国の国造、くにのみやつこ、とされた。

この歌問答は、後に、連歌のはじめとされる。

だから、連歌の道を、筑波の道、と読んだり、尊を、この道の祖と呼んだりする。

古事記によると、その後、尊は、信濃に入り、その坂の神を言向けて、尾張に戻られた。
そこには、さきに一緒になろうと約束していた、美夜受比売、みやずひめ、がいたのである。



posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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