2012年04月04日

神仏は妄想である。365

人間は物事を語るのに自己の判断を少しも交えることなく単にその起こった通りに語るということは極めて稀なものである。
それどころか彼らは何か新しいことを見或いは聞く場合、非常に用心しない限りは、概ね自己の先入的見解によって強く支配され、彼らが実際に見或いはこととはまるで違ったものを受け取る。
殊にその出来事が語る人或いは聞く人の把握力を超越する時にそうであり、わけてもその事柄がある一定の様式で起こることがその人自身に重大な意味を持つ時に最も然りである。
スピノザ
改行は、私。

つまり、結果は、出来事そのものを、語るのではなく、自己の見解を語るのだ、と言う。

確かに、御もっとも、である。
非常に、注意深く、見ても、それがあるのだ。

同じ物を見ても、人により、全く違うものになる。
更に、解釈となると、もう、駄目。
観念に、まみれる。

スピノザは、それを聖書の記述で、取り上げるのである。

だから、聖書における、奇跡を記したといわれる、物語を理解するためには、その奇跡を最初に語った人、または、最初に書き記した人の、当時の見解を知り、その見解を持ちえた、感覚的知覚と、区別するべきなのだと、いうこと。

そうでなければ、その見解や、判断を、実際に起こったままの奇跡と、混同することになると。

出来事を、表象的なものか、予言的幻影に過ぎないものか。

例えば、
神が火に囲まれてシナイ山へ降りて来たので、山が煙を上げた。
エンアが、火の車と、火の馬とを懸けて天に昇った。
という事柄などは、実際の出来事として、伝えた人の、平素の見解に、順応した幻影に、他ならないと、言うのである。

何故なら、民衆より多少勝れた知力を持つ者なら誰でも神には右手も左手もないこと、神は運動もせず静止もしないこと、神は限定された場所に居るということはなくむしろ絶対に無限的であること、神の中には一切の完全性が含まれていること、そうしたことを知っているからである。
スピノザ

あえて言う、ものを純粋知性の諸概念によって判断し、表象力が外的感覚から触発されるところによって判断しない者は、これを知っている。
スピノザ

要するに、迷信のような考え方は、哲学者は、持たないのであると、言う。

最後に奇跡をその実際に起こったとおりに理解する為にはヘブライ人たちの言い回しや修辞的表現法を知ることが大切である。
スピノザ

奇跡の話しから、自然に関して、説明しているスピノザの、当たり前といえば、当たり前のことを、言うのである。

一つの例を上げると、
神は彼らをして砂漠を行かしめ給える時、彼らは渇くことなかりき、神彼らの為に岩より水を流せしめ、また岩をさき給えば水ほとばしり出でたり
イザヤ書
これに対して、スピノザは、
あえて言うが、彼がこれらの言葉によって述べようとしているのは、ユダヤ人たちが砂漠の中で泉を見つけ(これは普通にあることである)それによって渇きを鎮め得るのであろうということだけである。事実彼らがクロスの承諾を得てエルサレムに戻った時、前記のような奇跡はーーー人々の知る通りーーー彼らに起こらなかったのである。
と、言う。

自然的光明に矛盾することを、証明するような出来事を、ほとんど聖書の中に、見出しえないのである、ということだ。

これは、つまり、自然の法則に反する、矛盾するようなことは、起こらないとの、判断である。

更に、聖書には、若干の箇所で、自然一般について、自然が確固として、不可変的な秩序を守ることを、肯定しているとの、判断である。

スピノザは、確かに、真っ当な事を言った。
しかし、現在も、それを受け入れているとは、思われない。

信者は、奇跡を信じている。
更に、奇跡が神によって為されているとも、信じている。

自然は、自然以外の、何物でもない。
そこに神を、介入させると、それはウソになると言うのである。
真っ当な、神学的姿勢である。

人の目に見えて、行われる奇跡などは、神のすることではない。

神は、我々に知られ、知られない、すべての世紀を通じて、同一であつたこと、自然の法則は、極めて完全かつ豊穣であり、それに何物を加えることも、そこから、減ずることも出来ない。

最後に奇跡は人間の無知の故にのみ何か新しいものと見られること、そうしたことを明瞭に教える。つまり聖書にはこうしたことがはっきり説かれているのであり、これに反して自然の法則に矛盾するような或いはその法則の結果でないような何事かが自然の中に起こるということは聖書の何処にも説かれていない、従って我々はそうしたことを聖書に対して虚構してはならぬのである。
スピノザ

新しい神学の登場であった。
しかし・・・

無知の故に・・・である。
今も、それが、正されていないのである。

さて、西欧の自然観が、このようにして、明確にされると、日本の自然観との、相違が、実に、明確に分る。

ユダヤ人たちは、異教徒に対して、自然は、神の被造物であり、そこで起こる奇跡は、すべて神が関与して起こるのである。
だから、ユダヤ人の神を、信じるべきだ・・・

それは、スピノザも、同じである。
ただ、スピノザの明晰なところは、自然の法則に矛盾するようなことは、決して有り得ないし、それを、神の云々と言えば、神の観念が違ってしまうと、言うのである。

聖書の新しい解釈を、スピノザは、書き上げたのである。

ユダヤ人から見れば、日本人も、異教徒なのである。
何故なら、日本人は、自然のすべてに、神の意識を感じて、崇敬した。
太陽を、大地を、自然のありとあらゆる働きを。

当然、唯一の神を知らない人種として、その観念を伝え、信じるようにするだろう。

勿論、唯一の神という存在は、ユダヤ人の教えであり、それを受け継いだキリスト教、イスラム教の教えである。
教えであり、教えとは、妄想である。

教えとは、創られたものであり、真っ当なものではない。
神が創ったものではなく、人間が想像したものである。

もう一度、言うが、日本人には、神という観念は無い。
自然、あらゆるすべてのものは、結びついて、関連し合い、生まれて生きている。
その感覚を、カマ、カム、カミとの系列語の言葉によって、現在、カミという言葉を使うのである。

日本民族は、感性の優れた民族である。
知性より、理性より、感性によって、感覚知覚した民族と、私は、理解する。
それは、世界に誇るべき、日本の自然によってなったものに、他ならない。

西欧の哲学は、たった一つの民族である、ユダヤ人の神観念に対して、七転八倒して、成り立つものであるとは、哀れである。




posted by 天山 at 00:05| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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