2012年03月05日

ビルマの希望に会う8

田口氏の、エイズ最前線、という本の中に、大森絹子さんという方が、出てくる。

大森さんは、エイズ孤児施設を、チェンマイに建設した方である。
高地民族のための施設であり、その孤児たちを世話する。

大森さんは、大阪の堺市にある、クリスチャンの病院の看護師をやめ、キリストの愛の導くままに、日本キリスト教医療協力会の一員として、北部タイの病院に勤務する。

その病院は、ビルマ国境に近い、メ・ホンソンにある、欧米系のミッションが、カレン族のために作ったものである。

メホンソンには、私も一度、追悼慰霊に出かけている。
タイ、ビルマ戦線の兵士の道行きの場所である。

矢張り、その頃、高地民族もエイズの激発期にあり、それを見た大森さんは、その撲滅に力を注いだ。
そして、「エイズの最大の被害者は誰か」という問題意識があったという。

思索の末に「それは、エイズ孤児ではないか」という、結論に行き着いた。

大森さんは、四年間をタイで過ごし、更に学問を深めるために、アメリカに渡る。文化人類学の博士号を取得して、帰国する。

そして、金沢大学看護学部の先生をやっていたが、そのかたわら、北部タイの、チェンマイに、「希望の家」という、エイズ孤児の施設を建設するために、奔走した。

現在も、その施設は、ある。

チェンマイの小西さんに確認した。
小西さんは、その施設に伺おうとしたが、丁度、インフルエンザの時期で、施設では、外部からの人を、断っていたという。

だが、希望の家は、存在する。

大物さんは、2001年、肺がんで亡くなられている。
四十代の若さだった。

田口氏によると、希望の家は、ラフ族のプランセン夫妻が孤児たちの養父母として、運営に当っているという。
その運営費は、日本で作られた、NPO法人の支援によるもので、決して余裕のあるものではないと、記されている。

私は、次回、チェンマイに出掛ける際には、是非、希望の家に出向きたいと思っている。
小西さんを通して、子ども達の衣類が必要かを、問うて、行きたいと思う。

こうして、新しい情報を得る。

そして、新しい情報は、私の新しい活動の元になる。
必要とする所、人たちに、手渡しで渡したい・・・

日本は、経済大国になった。
それは、国民の努力もあり、更に、アジアの人々のお陰もある。
金にあかせて、アジアの国から、多くの資源を奪った。

更に、アジア人蔑視は、今も続いている。
アジアは、同胞である。

大東亜戦争、第二次世界大戦も、アジアの独立を目指した、戦いだったはず。

そして、紆余曲折はあれ、日本が敗戦しても、アジアの植民地は、解放され、独立を果たした。

特に、東南アジアは、お互い様の心で、付き合う国々である。
更に、これからは、東南アジア諸国連合、アセアンと、手を取り合い、日本は、進むべきである。

そのために、彼らの助けになるのであれば、進んで、援助、支援活動をすべきだと、私は思う。

そして、何処の国の子ども達も、アジアの未来である。
彼らとの、友情にかかっている。

民族と、宗教、思想、心情の違いを超えて、新しい世界に目指して行くべきである。

幸いなことに、アセアンの人たちは、日本に対して、友好的である。
日本の支援により、アセアンが、復興した。
更に、個人的活動によって、アセアンの人たちと、深く結ばれることである。

口で言うのは、易しいが、行動するのは、難しい。
だが、時代は、それを求めている。

メーサイ、タチレクに出掛けた翌日の夜も、私たちは、ナイトバザールに出掛けて、食事をした。
そこで、思いがけない出会いがあった。

食べ終わり、コータがたこ焼きを食べたいと言うので、たこ焼きコーナーに行った。
注文すると、女の子三人が、たこ焼きを買いに来た。

出来上がりを待つ間、私が彼女たちに、声を掛けた。
一人の小さな女の子に、
アーユー、ボーイ、オア、ガール
である。

男の子か、女の子か、解らなかった。
すると、彼女は、アイアム・ガールと答えた。
そこから、話しが始まった。

私は、彼女に
アイライク・ユーと言うと、とても、喜んだ。
そして、彼女は、私の横に来た。
そして、もう一度、私は、女の子です、と言う。

年を聞いた。
二十歳である。驚いた。私は、中学生くらいかと、思った。
他の二人は、19歳である。
すると、男の子も現れた。
皆、大学の友人であるという。

一番、大柄な女の子が、私に、実は大学で外国人とのインタビューのテーマが与えられました。
色々、質問しても、いいですか、と言う。

私は、オッケーと言ったが、英語に自信が無い。

さて、質問が始まった。
それを、男の子が撮影するという、段取り。

細かなことは、省略するが、コータが、応援してくれて、何とか、質問をこなした。
だが、私たちと彼らが、急速に、親しくなった。
一人一人の名前を聞き、メールアドレスの交換である。

一時間以上を話していた。
私は、彼らに、二つ分のたこ焼きをプレゼントした。
遠慮したが、これが、日本式の付き合いなんですと、教えた。

さようなら、と言って、名残惜しく別れると、後ろから、やったー、オーマイゴットなどと、歓声を上げている。

私たちの活動にとても、興味を持ち、次の時は、是非お手伝いしたいと、言うので、それは、是非、協力してくださいと答えた。

チェンライには、ミャンマー難民が多く入り込んでいるのだ。
コータが見たのは、廃屋に住むミャンマーの人たちだった。

まだまだ、必要なことが、ある。

ミャンマー北部の人たちは、中国にも、入っているという。
新政権が、早く、国内の融和政策を行わない限り、それが、続く。




posted by 天山 at 00:15| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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