2012年02月21日

霊学53

現実原則感覚が、失われた時代ということで、小此木氏が、書いている。

自然から与えられたものは、何でも自分たちの思う通りに変えることができるし、自分に都合のよいように動かしつくり変えることができるという全能感を誰もがもつ時代になってしまいました。
小此木

確かに、そのようである。
そして、それは、西欧の思想に依る。
神の被造物である、自然は、人間の手によって、好きなように、使用するという、考え方である。

それによって、小此木氏は、現代人の全能感は、我々が現実原則に従うより、むしろ操作原則によって、暮らす時代を迎えたという。

この、操作原則について、書く前に、昨年の大震災により、現実感覚が、少しは、取り戻せたのではないかと、思える。
勿論、すぐに忘れて、また、元に戻るだろうが、あの震災は、強烈な印象を与えた。

自然を思うがままに、扱うことは、出来ない。
更に、これから、大地震が起こる確率は、10年以内で70%という。
全くの無力なのである。

それでも、長年に渡り培ってきた、全能感は、消滅しない。

赤ん坊は、快を求め、不快を回避する快感原則に支配される。
しかし、精神身体機能の発達と共に、快感原則を克服し、現実原則に従う事が出来るようになってゆく。

現実感覚身に従うとは、欲求不満に対する、耐久力、迂回行動・・・
それらを、含んだ、自我の適応能力の発達を意味する。

フロイトは、人間が自然環境に対し、適応して生きるために従わなければならないことを、現実法則と、呼んだ。

ところが人類は、これらの現実原則の支配力を大幅に緩和してしまいました。たとえばこの観点からみると、現代の日常生活はすべて、自然環境の直接のストレスから人間を守る間接的な人口環境の中で営まれています。
小此木

それにより、
フロイトの説いた「断念の苦痛に耐える心」つまり、現実感覚であるという、根源的な認識を失わせてしまった。
のである。

それが、
人類全体としての自然の法則に対する自己愛幻想が、想像以上に肥大した日常の中で暮らしているのです。
小此木
ということになる。

アメリカの哲学者、ヘルベルト・マルクーゼは、人間が生活する上で、守らなければならない人為的・社会的なルールを、「執行原則」と呼び、フロイトの、現実原則と、区別した。

マルクーゼは、現実原則の支配が緩和されると、それに代わり、執行原則の支配が、より大きな役割を占める時代が来ると、預言したのである。

それに対し、小此木氏は、
現実感覚が支配する代わりに執行原則が支配する時代がくるというマルクーゼのこの預言は、確かに社会が管理社会化し、その機構が大衆を支配する時代になったという点では当っているのですが、個々の大衆の心理についていえば、このリアリティを直接経験するよりはむしろ、そのリアリティに気付かないまま執行原則を過小評価して暮らすようになったからです。
と、言う。

つまり、現実原則に従う感覚が失われ、執行感覚に従うという感覚も、希薄なままになったといえる。

実際には現実感覚に従うべき局面でさえも、人々はそれを人為的・相対的な執行原則にすぎないとみなすようになりました。
小此木

更に、恐ろしいことは、根源的な、病、死の問題まで、すべて相対感覚で、受け取るようになったことであろう。

この本の発行から、30年を経て、状況は、益々と、それ、になってきた。
これを進化と呼ぶべきか・・・

また、私は、時代感覚が、このように移行し、変動するのは、当然だと、思う。

それで、操作原則感覚の、肥大が起こるのも、当然である。

ボタン、スイッチを押すだけで、生活の必要なことの、大半が、意のままになる。
そして、
われわれは旧来の現実原則感覚を急速に失ってしまいました。
小此木

ここで、学者の、分析がはじまる。
つまり、操作は、主体の個性を必要としない。没個性的な操作により、成り立つというのである。

この事実が、逆にこれらの違い(性別、年齢、教育程度)を意味づけてきた伝統的な価値観を排除する大きな動因になっています。・・・
現代社会の平等幻想というのは、実はこのことと関係が深いのです。
小此木

これは、平等幻想であり、没個性であり、最終的に、私は、誰、私は、何という、意識を生むと私は言う。

そして、それを問う行為が、繰り返されるのである。
つまり、新しい哲学、言葉の世界である。

だから、安易な言葉の数々、稚拙な宗教などの言葉に、乗せられてしまう危険性もある。
生まれた時から、その状況の中で、育ち、個性を知らない、知る必要もない人たちが、愕然とする事態に出遭った時、人生力を発揮する。と、信ずる。

さもなくば、ぼんやりとした、人生の時間を過ごして生きるしかない。
更に、妄想に浸りきるのである。
知らないということを、知らない人間が、妄想の価値観に没頭して生きるのは、悲劇である。

大震災は、それを、教えた。




posted by 天山 at 00:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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