2012年02月07日

神仏は妄想ある。362

古代のユダヤ人が、異教徒に対して、自分たちの、神を教示するために、その奇跡を語り、それを根拠に、全自然は、ユダヤ人たちの神が支配していると。そして、ユダヤ人の利益のみになるように、導かれているということを、示した。
との、ピスノザの指摘だった。

だから、一時期、ユダヤ人たちが、支配したと、考えてよい。
というより、ユダヤ人の神を主として、利益を得るように導いたのである。

自分たちが他の人々より神に愛されており・自分たちのためにこそ神は一切を創り且つ絶えず一切を導いているのであると他から思われようとしたのである。何という僭越を民衆の無知は敢えてすることであろう。
スピノザ

民衆というより、ユダヤ人である。
ちなみに、スピノザも、ユダヤ教徒であった。
だが、破門されるのである。

だいたい、本当のことを言う人は、破門されるか、殺される。
主イエスも、そうであった。

これというのも彼らは神についても自然についても何ら正しき概念を持たぬがゆえであり、又神の意欲を人間の意欲と混同するがゆえであり、最後に又自然を限定的に考えて人間を自然の中心であると信ずるがゆえである。
スピノザ

と、古代のユダヤ人、及び、それに影響を受けた人々のことを言う。
これで、西欧の自然に対する、根本的な見方が、解るというもの。

それで、スピノザは、四点の指摘をする。
その一つは、
何物も自然に反しては生起せず、反って自然は永遠・確固且つ不可変的な秩序を守ること。なお、又同時に奇跡なるものを如何に理解すべきかについて。
スピノザ

これに関して、
すなわち神が意欲し或いは決定する一切は永遠の必然性と真理とを自らの中に含むということから容易に証明される。
と、言う。

これが、キリスト教、カトリックに取り込まれることになる。

神の知性が神の意志と区別されないということからして、神があることを意欲するというのと神があることを認識するというのと同一事である・・・
スピノザ

神がある物をその通りに認識するということが神の本性と完全性とか出てくるその必然性、その同じ必然性を以って、神がそのものをそのある通りに意欲するということから出てくるのである。ところで、すべてのものは神の決定に依ってのみ必然的に真なのであるから、これからして、自然の普遍的法則は神の本性の必然性と完全性とから出てくる神の決定にほかならないということが極めて明瞭に帰結される。
スピノザ

この翻訳ものの、言葉によって、日本人は、やられてしまった。
上記のように、説明することが、頭の良い人の言うことだと・・・

神という、観念から、抜けられないのが、西欧の思想哲学である。
この戦いを、日本人は、経験しないから、云々という、識者たちがいる。

神との、戦いなくして、思想は、生まれない云々、である。

その、神という、観念を、これでもか、これでもかと、問う西欧の哲学者たち・・・
ご苦労である。

しまいに、日本は、神不在の云々となると、もう、手の施しようがないのである。

だからもし自然の中に自然の普遍的法則と矛盾する何事かが起こるとすれば、それは必然的に神の決定、知性、本性とも矛盾することになる。
あるいはもし人が神はあることを自然の法則に反してなすと主張するなら、その人は同時に、神が神自身の本性に反して事をなすことを主張せざるを得なくなるのである。
しかしこれほど不条理なことはない。なおこのことは自然の能力が神の能力ないし至力そのものであり・神の能力は神の本性そのものであるということからも証明され得るが・・・
スピノザ

それで、自然の中には、自然の普遍的法則に、矛盾する何事も起こらない、というのが、スピノザの見解である。
つまり、それは、ユダヤ人たちが言うところの、奇跡の話しを否定しているのだ。

それは、神というものを、新たに、創り出そうという、思考である。

つまり、ユダヤ人たちに対して、ユダヤ教に対して、そんなものではない。
神とは・・・
と、批判しているのである。

そして、世俗的なカトリックは、これは幸いと、取り込んでしまうのである。

ユダヤ教に対抗し得る、キリスト教の神観念となるわけである。

生起する一切は神の意志と神の永遠の決定とによって生起するからである。
スピノザ

健全な理性は自然に対して限定された能力ないし至力を帰するように我々を教えはしないし、また自然の法則がある一定のものにのみ妥当してすべてのものに妥当しないと主張するようにも教えもしない。
スピノザ

注があり、
ここに自然というのは単に物質とその諸変状とのみを意味せず、むしろ物質の外になお無数のものを意味する。と、ある。

続きである。
何故なら、もし自然の力ないし能力が神の力ないし能力そのものであり、自然の諸法則・諸規則が神の決定そのものであるとすれば、我々は自然の能力が無限的であることを、並びに自然の法則は極めて包括的であって神の知性が概念する一切物の上に及ぶということを全然容認しなければならぬからである。
さもなくては神は自然を無力なものに創り、自然に対して効力なき法則や規則を与え、その結果神は自然を維持しかつ諸物を自分の希望通り展開させるためにはますます新たに自然を助けなければならぬといったようなことを人は認める外なくなるであろう。しかしこうした認定は理性から最もかけ離れたものであると余は考える。
スピノザ

つまり、奇跡という言葉は、人間の見解に関連してのみ、理解される。
奇跡とは、我々が、その自然的原因を、他の普通の事柄の例によって、説明し得ない。
また、少なくとも、奇跡について、書き、また、語る人自身は、それを説明し得ない。

だから、
古人は確かに民衆が通常自然的諸物を説明するように説明することが出来ないことを皆奇跡と思ったのである。
スビノザ

旧約聖書の奇跡に対しての、批判である。

だから聖書の中には疑いもなくその原因が奇跡として語られているのである。
スピノザ

聖書のほんの一部を除いて、奇跡は、単なる民衆の無知ゆえであると、言うのである。
だが、それを、説得するために、神という、新しい概念を創り出すという、努力である。

そうして、神学という、妄想の一つに掲げられるのである。




posted by 天山 at 00:03| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。