2012年02月03日

カンボジアの悲劇10

そのタイアイ族の、母子は、陸橋の下にいた。
子供は、知り合いなのか、タイ人の二人のおばさんに、あやされていた。

急いで、走り、バッグを開けて、必要なものを尋ねる。
タオルも、子供衣服も、彼女のものも、欲しい・・・

私は、取出して、渡したが、手に荷物があり、持てないようである。
更に、子供を抱えて、帰るのであるから・・・

そこで、ビニール袋を出して、その中に入れて、車が来るまで、待った。
タイ人のおばさんたちも、協力してくれ、母子を、送る。

私が心配なのは、母親が、気が弱いことだった。
よくぞ、ミャンマーから出て、バンコクで、暮らしているものだと、思った。
それでも、バンコクにいた方がいいのだ。

食べて行ける。
それを、あからさまに見たのは、次の祖母と孫の二人である。

私は、部屋に戻り、時刻が、12時を回ったことを知り、もう、今夜は、終わりだと、ベッドに入った。
しかし、コータは、また出て行く。

そして、うとうとし始めた頃・・・
先生・・・
コータである。

ゲストハウスの前に、カンボジアの婆さんと子供が、いる・・・
えっ・・・

その二人のことは、ゲストハウスの人たちも、気に掛けていたらしい。
従業員が、コータに、あの二人は、父親と母親が、不法滞在で強制送還されてから、二人で、物乞いをしたり、ダンボールを集めて、生きている。
そして、寝る場所が、ゲストハウスの下、丁度、店の玄関前の、少しの間なのであると、教えたと言う。

また、急ぎ、私は浴衣を着て、出た。
本当に、隣の店の前に、子供が寝ていた。

お婆さんは、その子供を見つめて、座ったままで、眠るのだろう。

すぐに、子供用の衣服を取り出し、更に、靴があったことを、思い出した。
丁度合うものだった。
更に、お婆さんも、靴が欲しいと言うので、大きめのシューズを上げた。
更に、余りに、二人の姿が凄まじくて、私は、300バーツを差し上げた。

この生活でも、国に帰らないのは、何故か・・・
国に帰っても、食べられない。だから、バンコクにいると言うのである。

当局に、申してで、帰国させるべきだと、私は思ったが、違った。

難民である。
ミャンマー、カンボジアが、いかに、貧しいか・・・

両国ともに、最貧国である。

ゲストハウスのフロントでは、従業員が待っていた。
そして、皆が、私に感謝する。
フロントの女性は、ガッツポーズまでした。

皆々、心に掛けていたのである。
しかし、出来ることは、少ない。
自分たちの、お金さえ、ミャンマーにいる家族に送金しなければならないのだ。
だから、二人に、共感するのだろう。

部屋に戻ると、一時半を過ぎていた。

本当に、疲れた。
そして、疑問を考える間もなく、眠った。

帰国して、ミャンマーが、急速に、民主化に進んでいるという、情報である。
兎に角、このままでは、国民が死ぬ。
国民が死ねば、国が終わるという、意識に目覚めたようである。
経済制裁を解くためにも、民主化が必要だと、大統領が決定したのである。

アウンサンスーチーさんも、補欠選挙に出馬するという。
ヤンゴンでは、民主化により、取材も、スムーズに行くようになり、警官に後をつけられることもなくなったと、言う。

更に、私服警官も、いない。

それを聞いて、心から、喜んだ。
だが、まだ時間は、かかる。
その間に、少数民族の人たちは、祖国を後にする。

私たちの、帰国の飛行機にも、前回と同じく、ミャンマーの少数民族の人たちが、アメリカへ移民として行くために、30名ほど乗っていた。

この、糠に釘の行動・・・が、いつか・・・

ミャンマー独立の父は、アウンサンスーチーさんの、父親である。
独立記念日の歌に、日本と共に・・・という、歌詞がある。
凄いことである。

アウンサン将軍は、日本と共に・・・なのである。

ミャンマーが民主化し、自由に発言できるようになると、国民は、日本に対して、どんな態度になるのか・・・

ビルマは、日本によって、独立を勝ち取った・・・
と言う人たちが、多々いるであろう。

更に、日本人が、ビルマの人の、苦しさを理解してくれた・・・

一番、信頼される、国、日本である。

日本企業の誘致は、スムーズである。
そして、市民も、日本企業大歓迎なのである。

日本人の大多数は、それを知らない。

下賎な話をする。
最も、最下層にいる、売春地帯の人たちが、優しくて、金払いの良い、日本人を最も歓迎すると言う。




posted by 天山 at 00:01| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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