2011年12月20日

希望のビルマへ6

食堂で、コーラーを飲みつつ、日の丸を組み立てる。
これからは、日の丸を掲げて歩くのである。

コーラーは、日本では、飲まないが、タイでは、糖分補給のために、飲むことにした。

次ぎは、いつものスラムに行くことにする。
国境から直接歩いた方が、近いのだが、周囲を回って見て周り、逆方向から行くことにした。

三年前と、それほど変わっていないが、何か、微妙に違う。
それは、川沿いの建物が、何となく、新しく見えるのだ。

ホテルが建つと言っていた場所には、ホテルが無かった。
その前が、スラムである。

その前に来て、あらっ、と思った。
スラムの入り口が、変わった。
両側に新しい建物で、商店がある。

それでは、中も新しくなったのかと、覗くと、中は、以前のままである。
その時、幼児を抱いた、一人のおばあさんが、私たちを見つけて、声を掛けた。

あらーー懐かしい
とでも、言うようである。
コータが、覚えていた。

そして、幼児の着ているものを、私に見せて、あなたから貰ったものよ・・・と、言うように感じた。

丁度、子供たちが、両側の商店の間に、ビニールを敷いて、遊んでいるところだった。

私は、子供たちに、挨拶して、そのビニールの上に、衣類を出した。
子供たちは、突然のことだが、驚かない。
逆に、私の出したものに、興味津々である。

私たちのことを、聞いていたようである。

私は、長屋の奥にいる人たちにも、声を掛けた。
次々と、人が出て来る。
男性も来たが、何か照れたように、後ろの方にいる。

子供たちに、一人一人、サイズの合う衣類を渡す。
幼稚園児から、小学低学年程度の、年である。

女の子が多い。
素直に受け取るのがいい。
私は、日本語で、皆さん元気ですかと、おばあさんに、声を掛けた。
以前出会った、長屋の主のような、おじいさんの事を思い出した。
コータが、タイ語で話しかけている。

少し、タイ語が通じる。

幼児を抱いた母親が、来て、幼児物をすべて差し上げた。
ただ、成人男子物が無い。

女の子たちには、衣類の他に、マフラーなどを、上げた。
それを首に巻いて、喜ぶ。

写真を撮りますよ・・・
すると、皆、私の元に集まる。

一番小さな女の子が、私の横に来たので、膝の上に乗せると、恐れもせず、楽しげである。

この場所には、二年続けて来たので、私たちの事を、子供たちも聞いていたのだろう。
何の抵抗も、恐れも無かった。

何枚も、写真を撮った。

子供たち一人一人の、表情も、撮った。

あっという間の、出来事である。
もう、さようなら・・・
おばあさんは、来年も来るのかいと、コータに聞いた。
私は、また、来ますと、日本語で言う。
おばあさんが、頷く。

ただ、以前の人の顔が、あまり見えないのが、残念だった。
突然のように、他に移ることがある。

何せ、全員が、他の場所に移ったこともあった、スラムである。

三年前は、特に、政情不安定だった。
少数民族軍が、国軍と対峙していたのである。

そして、昨年から、内戦状態になった。
それは、北部に中国がダム建設を行ったからだ。

少数民族の村々を、潰して、追い出し、更には、国軍が、村に入り、強奪、村の女を強姦したり、殺したのである。

少数民族は、連携を組んで、政府と、国軍に対処した。
それで、また、国内難民が生まれた。

ところが、民政移管を実行する政府が、ダム建設の中止を決めたのである。
画期的なことだった。

それから、少しずつ、国内が安定している。
だが、少数民族は、今までも、ウソをつかれ続けているので、今も、まだ、政府を信じていない。

二三十人の単位で、少数民族の人たちは、住む場所を転々としている場合が、多々あったのである。

さて、皆さんと、分かれて、私たちは、その奥の道を歩いた。
差し上げる人たちを捜した。

そして、大きな敷地に、人がいるのが見えたので、そこに、声を掛けた。
それが、偶然に孤児施設との、出会いになるとは、その瞬間まで、解らない。
一人の女の子に、バッグから、女の子のズボンを出して、差し出すと、女の子が、身を引いた。
すると、青年が出て来た。
私たちが、物売りだと思ったらしい。

青年が、英語で、私たちのことを尋ねる。
それから、である。
新しい、お話しの始まり。




posted by 天山 at 02:02| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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