2011年12月15日

希望のビルマへ

少数の
悲しみにある
民族の
ビルマの人を
あはれに思う

今年、平成23年、2011年の、最期の慰霊と支援の旅である。

今年、10回目の旅は、ビルマ難民支援を主にする。

寒い日本から、真夏のバンコクへ飛ぶ。
暑さになれるために、一日、バンコクで、いつもの、マンションホテルに泊まった。
皆さんと、顔馴染みである。

何度、そこに泊まったか・・・

今回は、何処・・・
と尋ねられる。
チェンマイ、チェンライ、メーサイ、ミャンマーのタチレク。
従業員は、黙って頷く。
私たちの、活動を知っている。

三日目の朝、空港に向かう。
チェンマイに飛ぶ。

チェンマイは、実質、二日の予定である。
その、三日目は、チェンライにバスで、向かう。

昼過ぎに、チェンマイ到着。
小西さんに、連絡し、更に、メーソートで、お世話になっている、広倉さんの、二人の娘さんに連絡し、食事の予定を決める。

夜六時に、小西さんの家族三名と、広倉さんのお嬢さん二人、そして、私とコータと、七人で、食事をする。

お嬢さんたちには、メーソートでも、会っている。
妹さんの方は、支援活動を手伝って貰った。

小西さん家族とは、一年振りである。
昨年は、10月に、チェンマイに来た。

一年の最後を、タイ・ビルマ戦線の戦没者の追悼慰霊と、ビルマ難民支援で、終わる事を、感謝する。

翌日の、一日で、慰霊と支援を行う予定である。

朝、10時から、小西さんの運転する車で、タイ・ビルマ戦線の戦没者の慰霊碑に向かう。
バンカート学校の敷地内に、それがある。
何度も、そこで、追悼慰霊の儀式を行った。

今回は、日の丸を掲げて、祈る。
その辺り一帯には、まだ、遺骨が見つからない兵士たちがいる。
約2万人である。

だが、慰霊碑は、多くの人たちの祈りによって、霊的に、清められていた。
宗教の如何を問わず、多くの人たちが、祈りを捧げたのである。

丁度、太陽が天中にある時刻である。
私は、太陽を拝し、そして、祝詞を唱えた。

皇祖皇宗と共に、天津神、国津神、八百万の神たち、そして、その地を治める産土の神を、お呼びして、清め祓いを行う。

小西さんに、本当に綺麗になりましたね・・・
と、言う。小西さんも、
ありがたいことです・・・
小西さんの長年の、慰霊の心を映すようである。

さて、それから、支援である。

その前に、ある出会いについて、書く。

私たちの泊まったホテルの、真向かいに、レストランがある。
そのレストランに、前日、チェンマイに到着した後、コーヒーを飲みに出た。

そこで、働いていた、女の子に話し掛けたのが、はじまりである。

何と、彼女は、ビルマ人で、タイアイ族だった。
両親は、イサーン、東北地方に住むという。
姉と、二人で、チェンマイで暮らす。

私たちは、彼女に私たちの活動を話した。
すると、お姉さんが、ビルマの人たちのボランティアを行っていると言う。
そこで、私たちも、是非、チェンマイにいる、ビルマの人たちに、支援をしたいと言うと、彼女が、お姉さんに、連絡した。

丁度、仕事中で、お姉さんから、こちらに、電話をしてくれるということになった。

ホテルで、電話を待っていると、お姉さんから、電話が来て、色々と教えてくれた。
その中で、場所のよく解る活動機関を教えて貰った。

その住所を聞いても、よく解らないが、小西さんに言うと、すぐに解った。
だが、住所は、解るが、特定の場所が解らない。
その住所に着いて、付近の人に尋ねる。

皆さん、わざわざ、付いて、その場所を教えてくれる。
そして、ようやく、ビルマ難民の支援を行う、施設を見つけた。

その代表に話をすると、事は、スムーズに進んだ。
その施設には、働いても、生活出来ない、若い人たちが、共に暮らしていた。
彼らにも、紹介された。

代表は、入院患者の施設に支援をして欲しいとの、願いである。
そして、私たちと、一緒に車に乗り、その、入院施設に出向いた。
全く、予期していなかったことである。

私たちは、コータが、見つけたという、水害の被害を受けた、スラム街に出掛ける予定だった。ところが、ビルマ難民の支援が、このように行われるという、僥倖である。



posted by 天山 at 01:47| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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