2011年11月16日

神仏は妄想である。354

第一の意味における自然は、存在するあらゆるものの集合的な名前である。第二の意味では、自然は人間の意思の介在なしに、それ自身で存在するあらゆるものの名前である。
ミル

しかし倫理学の用語として自然という語を使用することは、自然という語は何であるかを表すのではなく、何であるべきかを表す、つまり何であるべきかの規則や基準を表す第三の意味を示しているように思われる。しかしながら、少し考えてみれば、これが多様性の事例にならないことがわかるであろう。この場合、第三の意味はないのである。自然を行為の基準としてうちたてる人々は、ただ言葉上の関係を言おうとしているのではない。彼らは、どのような基準でも自然と呼ばれるべきであろうと考えているのではない。彼らは何が本当に行為の基準であるかについて何らかの情報を与えていると考えている。自然という語は私たちが何をすべきかについて何らかの外的な尺度を与えると、彼らは考えている。自然に従って行為すべきであると言う人たちは、すべきことをすべきであるという同音反復命題を考えているのではない。彼らは自然という語が、何をすべきかについて何らかの外的な基準を考えていると思っている。もし、彼らが本来の意味では事実「何であるか」を示す語を、価値「何であるべきか」の規則として設定しているとすれば、彼らがそうするのは、明晰であるか、混乱しているかは別として、ひとつの観念を持っているからである。それは、事実が価値の規則や基準を構成するという観念なのである。
ミル

そして、ミルは、その、観念を検討するというのである。

事実が価値の規則や基準を構成するという、観念である。

ミルは、自然神学の伝統的思考を、全面的に否定するものである。

それは、つまり、自然神学では、神と自然と人間が一つながりの連鎖の中にあり、自然は、神によって造られたものであるから、基本的には、善であり、その運行過程は、神の善意を表す摂理による。
そこから、人間の道徳は、自然に従うべきであるという、思想である。

であるから、語られることは、
神の善性から、
自然の善性、
そして、道徳的善の基準としての自然、である。

この連結が、弱められれば、最初の、神の善性が、弱められる、という、理屈である。

よくも、まあ、このような、面倒な、遠回りをするものであると、私は、思うが、これが、西欧の思想、考え方なのである。

日本でも、敗戦後は、そのように、思想を語る者が、多々現れた。
西欧の、真似であるが、それなりに、しっかりとした、ものが出来たと、思う。

自然神学は、キリスト教信仰において信じられている教義と一致する真理を自然の中に経験的・合理的に発見しようとする理論である。認識の目標、確認されるべき事実の前提になっている。信仰の立場では、神の存在も神の善性も真理である。そうでなければ、キリスト教信仰は成立しない。しかし、信仰の外に立って、感覚的経験と理性によって推論するとき、キリスト教の信念体系について何が言えるであろうか。その信念のどれが経験と理性によって真理であると確認できるであろうか。自然神学が取り組んでいるのは、その問題であった。
訳者解説、大久保正健

ミルは、
自然に従い、自然を模倣し、自然に従属することを、善いと考える、学説が正しいか、どうかを、探求するという。

言語というのは、哲学研究のいわば空気のようなものであるが、それが透明にならないと、何らかの対象の真の形と位置を見通すことができるようにならない。
ミル

これが、序の口であるから、先が、思いやられる。

説明する前に、説明するための、準備である、言葉について、語るという、念の入れようである。

賢い馬鹿たちが、実に、好む方法である。

それでは、こちらも、徹底的に、読むことにする。

何となく、曖昧に・・・していると、何となく、解るようなもの・・・ではないらしい。

西欧の思想で、日本の、もののあはれ、について、語らせたら、面白いだろうな・・・と、思う。

花の盛りは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

災害で、被災した人たちは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

さて、ミル、ミルである。

この研究の場合、もう一つの曖昧な表現を警戒しておく必要がある。
何・・・まだ、あるの・・・

その両義的な言葉は、十分にわかっているつもりでも、聡明な精神さえも誤解に導くことがあるから、議論を先に進める前に、特に注意しておく方がよい。
ミル

えっ・・・・まだあるの・・・・

自然という語と普通いちばん結びつく語は、法である。
そして、法について・・・書き始めるという・・・

そしてこの法という語は、二つの異なる意味を持つ。法は一方では事実の一部を意味し、他方ではあるべきことについての一部を意味する。私たちは引力の法則とか、運動の法則、化学結合における定比例の法則、有機体の生命法則といったことを語る。これらすべては事実についての部分である。私たちはまた、刑法、民法、名誉の法、正直の法、正義の法といった語り方もする。これらすべてはあるべきことについての部分、あるいは、あるべきことに関する誰かの見解や感情や命令である。・・・
ミル

これは、死ぬまでの、暇つぶしに、もってこいだ・・・

勘違いしないようにしてください。
私は、神道の自然崇敬について、書いています。
そこで、西欧の自然観から、彼らが、自然を、どのように見ているのかを、書いています。
今は、神道の妄想について、書いている、ということ。




posted by 天山 at 00:38| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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