2011年10月27日

孤児たちを訪ねて3

次に向かったのは、国境の川の前にある、自由戦士の碑である。

三名の日本人の若者が、カレン同盟と、ミャンマー国軍と戦い命を落とした。
その、慰霊碑である。
その碑の前で、慰霊の儀を執り行い、そして、戦いのあった、川沿いに出た。

川から砂を採取している。
以前より、大分、整っていた。

辻さんは、初めてで、その国境が目の前にあることに、感激していた。

乾季の時期は、川を歩いて渡れるとのこと。
ここから、難民が、タイ側に逃れるのである。

ミャンマー側の町は、ミャワディーという。
観光客用に、整えられてある町である。

一度も、入ることが、出来なかった。
封鎖されているからである。ミャンマー政府が封鎖を解かないのである。

政権は、民主移行したというが、まだまだ、それは、不十分である。
民主化を進める、政治犯が、何千人も、牢獄に入れられているのが、現状である。

まず、その開放が先決である。

さて、私たちは、また町に戻ることにした。
そして、難民を無料で、治療している、メータオクリニックに向かう。

私は、三度目の訪問である。

驚くのは、来るたびに、その敷地、建物が、増えていることである。
最初から見ると、三倍以上に、広くなっていた。

広倉さん、曰く、タイ人の貧しい人たちも、来ている、とのこと。

私たちは、入院病棟に向かった。
何と、何もなかった、体育館のような場所に、ベッドが入っていた。
どこかからの、支援であろう。

更に、患者数も増えている。
ベッドの下にも、患者がいる。

早速支援を開始する。
私は、まず、タオル類を取り出して、患者さんたちに、渡した。
ここでは、タオル類は、貴重品である。

おおよそ、タオルを渡して、次は、衣服である。
辻さんは、女性物と、女性の生理用品を、配っていた。

着の身着のままの、患者さんたち。
どんな思いで、入院しているのか・・・

気の毒である。

タイ政府は、ミャンマーが民主移行したので、難民を返すことにしたが、それは無理である。
彼らが国に、戻っても、元の木阿弥である。
つまり、仕事など無い。
更に、政府による、差別が待っている。

還りたくないし、帰りたくないのである。

難民は、受け入れる国を探す。
多くは、アメリカを希望するという。しかし、本当は、日本を目指している。が、日本は、審査が実に、厳しいのである。

タイの、難民キャンプで、選ばれても、三ヶ月の研修期間と、様子を見る期間がある。そして、選ばれると、また、研修である。
更に、日本に来ると、また、様々な研修を受ける。

その対応は、正しい。しかし、彼らの現状を見ると、日本の審査は、厳し過ぎるのである。

昨年は、90名を、受け入れたが、30名だけが、長野県の松本市が、受け入れただけである。他の、都道府県の、市町村は、受け入れを表明しない。

過疎の村、町が積極的に、受け入れることを、希望する。
彼らは、農業に、熱意があるから、過疎の町や村では、とてもよい、日本国民になる可能性が、ある。

クリニックでは、子供たちが、日曜日で、いなかった。
クリニック内の学校が、休みなのである。

それが、幸いした。
子供の物が、限られていたからである。

ただ、幼児たちがいた。
彼らに、ぬいぐるみや、文具を渡した。

クリニック内で、生活している人たちもいる。
その人たちにも、衣類の支援をする。

言葉は、通じない。
英語も駄目。
だが、心は、通じる。

おばさんは、どこの国も同じで、それ欲しい・・・
誰に必要・・・
それも、誰に必要・・・
人の分まで、受け取るのである。

私は、そういう、おばさんたちにも、欲しいというものを、差し上げる。
彼らは、決して独り占めしない。必ず、必要な人たちに、渡すと、知っている。

貧しい人たちは、助け合うのである。

実に、清清しい。
誰かに、渡すと、誰かに、届くのである。
そんな所で、独り占めしても、せん無いことなのである。



posted by 天山 at 01:32| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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