2011年10月18日

霊学37

同じ自己愛の満足でも、アイデンティティを全うすることによる自己愛の満足は、そのアイデンティティにふさわしい社会的役割を達成しなければ得ることができません。ですから、その場合の自己愛の満足は、現実性をもちアイデンティティをともにする人々との間での社会性を持っていました。ところが、現代人の裸の自己愛の満足は、自己愛のもつ幻想性をそのままあらわしています。またこの幻想性が、マスコミや消費生活で商品化されるのに都合がよい心理的な条件になっています。
小此木

自己愛は、社会的な自己のあり方が、曖昧になり、不確かなものになれば、なるほど、人は、パーソナルな自己愛の幻想的な、満足を、その代わりにする。

それが、現代人の、特徴だと、言うのである。

パーソナルな自己愛の、幻想的満足・・・

これは、危ういことである。
今も、この状態が、続いているのか・・・

つまり、現代の自己愛の特徴は、非常に主観的で、幻想的な満足に基づいているといえます。一人でコンピューターゲームを楽しむ、カタログ販売で自分の欲しいものを選ぶ、テレビを見るなどによってみたす自己愛は、一人っきりでみたせる自己愛です。
小此木

小此木氏の、提案は、また、分析は、人に愛されたり、社会的役割を果たすことによる、自己愛満足に比べて、もっと、主観的で、幻想的なものだと、言う。

別な言葉で、言えば、自己疎外である。
健康な自己愛ではない。

アイデンティティ、自我理想型の自己愛の、満たし方のシステムが、破綻した時代。

かつて、時代は、国家などによる、様々な集団が、人々の、自己愛を、搾取し、人間的な欲望を強制した時期があった。
だが、現代は、その代わりに、パーソナルな自己愛満足を、消費生活の中で、限りなく繁樹され、搾取され、その満足に、中毒して、依存しているとの、分析である。

別な言葉で、言えば、馬鹿になったということである。

ですから現代社会が提供する理想自己に飽き足らず、今なお真剣に自己実現を求めるような人物は不適応に陥ります。
小此木

更には、落ちこぼれ・・・
そして、社会的、無名化である。

それでは、小此木氏が、真っ当だという、自己愛は、
たとえばかつてのアイデンティティ社会には、歴史的社会的に一定の役割があって、その役割を果たすと歴史・社会が評価してくれて、歴史的・社会的な自己愛がみたされるという構造が、人間の健康な自己愛を維持するために確立していました。それに伴って、社会には一定の枠組みがあり、確固たる価値観があり、その中で人間の自己愛が安定してみたされていたわけです。
と、言うのである。

そして、当時の、日本社会を、
わが国社会の現実をみると、決して本当の平等社会でないし、差別構造もなくなっていない現実が存在している事実を指摘しているのです。イリュージョンの中にいるので、そのことが感じられなくなったり、みえなくなったりしているのです。国際社会をみれば、わが日本社会の現実はもっと厳しいものがあります。
と、言う。

今も、そうである。
しかし、イリュージョンの中に浸っているので、感じない、見えない、いや、感じようとしない、見ようとしないのである。

つまり、自己愛を保つためには、現実否認することが絶対的条件なのです。
小此木

だが、しかし、時代は、変化、変容するのである。

戦後の日本人はこれまでは、理想自己に一致するような現実をつくり出すために大変な努力をしてきました。それが生産性であり、技術力です。しかし、そういう仕組みが崩れたとき、幻想的な自己愛をみたすことができなくなって、これまで未解決だった恐ろしいものに直接ぶつかると、とても危険なことになります。
小此木

そして、そのように、なった。
東日本大震災と、原発事故である。

特に、原発事故は、大きな衝撃を、日本中に与えた。
すぐさま、反原発、脱原発の動きである。
それは、とても、性急なものになった。
次ぎの手を考えないうちに、原発をすべて、止めてしまうという、恐ろしい決定である。

車は、急に止まれない・・・のである。
しかし、急に止めようとする。
そうすると、すべてが、停止する。
その停止は、死活問題である。

現実を知らない、政治家が、決める。
そして、国民も、答えを出せないまま・・・曖昧模糊・・・として、狂うのである。

小此木氏は、ここで、突然、死という、現実を、持ち出して、分析のまとめを、する。
つまり、死は、そのイリュージョンの中にいて、ぬくぬくとしている、存在に、目を覚まさせるものだと、言う。

そして、この、死に方が、臨床上の仕事になってきたと・・・

ところが今やアイデンティティを失った現代人は、死に対するこれらの対応力も一緒に失ってしまいました。
小此木

死は、人間の持つ、全能感覚を破壊する、決定的な、リアリティとなる。

受動的な死以外を、考えられない、人たち。
能動的で、主体的な、死を、考えられなくなったのである。

裸の自己愛のままの受身的な死に方なのです。
小此木



posted by 天山 at 07:12| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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