2011年09月09日

神仏は妄想である。351

自然の正しい定義について、ミルの、記述を見る。

どのような事物の本性「自然」もその事物が持つ力と特性の総和であるから、抽象的な意味での自然は、万物の力と特性の総和である。自然とは、すべての現象の合計に、それらの現象を生み出す諸原因を加えたものを意味する。ここで言う現象には、発生するすべてのことだけではなく発生する可能性のあるすべてのことが含まれる。諸原因の使われていない能力もまた、結果に現れる能力と同じく自然の観念の一部をなしている。これまで十分に検査されてきたすべての現象は規則的に起こることが知られている。個々の現象が発生する場合には必ず基になる積極的あるいは消極的な一定の条件がある。したがって直接観察に基づく推論過程によってかのどちらかで、人類は多くの現象の発生条件を確かめることができるようになった。主にそれらの条件を確かめることによって科学は前進してきた。発見された条件は一般命題で表記できる。その一般命題は特定の現象については法則と呼ばれるが、もっと一般的には自然法則と呼ばれる。たとえば、すべての質量を持つ物体間には、質量に比例し距離の二乗に反比例する引力が働くという真理は、自然法則である。空気と食物が動物の生命には不可欠であるという命題も、もし私たちが十分な理由をもって例外はないと確信できるなら、現象自体は特殊であり引力のように普遍的ではないけれども、自然法則である。
ミル

自然という言葉は、現実になっている事実と、可能性がある事実の集合を表す名前、つまり、集合的名称である。
すべての事物の、発生様式の名前である、という。

当たり前のことを、ここまで、語るという、病気である。
西欧の哲学、思想は、それである。

そして、その、思考法に、長年漬け込まれた、日本人は、そういう、言葉遣いでなければ、納得し、理解しないと、思い込んだ、病である。

更に、恐ろしいのは、それで、納得し、理解したと、信じ込む。
ことの本質など、どうでもいい。
思い込むことが、大切なのであり、本質的なことが、何かなど、どうでもいい。

これを、滔滔と述べる人が、賢いと、思い込まれる。
勿論、病である。

この様式は、ある部分は私たちに知られており、ある部分は知られていない。というのも自然という語が示唆するのは、諸現象の多様な細部というよりは、むしろ、包括的見方であり、その見方は、諸現象の存在様式について完全な知識を有する精神だけがはじめて、一つの精神的全体像として形成できるかもしれないようなものだからである。科学は、経験からの一般化によって段階的に、この包括的見方に達することを目指している。
ミル

そして、より深く
つまり、真の科学的な意味では、技術も技術以外のものとかわらず自然であり、技術的「人為的」であるようなあらゆるものが自然であるからである。
ミル
と、いうことになる。

技術は、一定の目的のために、自然力を使うだけである、と言う。

彼の、いうことを、要約すれば、人間の作り出す、技術とは、すべて、自然からの、ものであり、それ自体は、自然の力である、となる。

自然という言葉には、少なくとも、二つの主要な意味を認めなければならないと、
第一は、自然とは、外界または内的な世界の、どちらかに存在する、すべての力を意味し、それらの力によって、起こる、あらゆることを、意味する。

第二に、自然は、発生するあらゆることではなく、意志作用なしでも起こる、つまり人間の、自発的で意図的な働きなしに、起こるものだけを意味する。

これにより、重要な結果に結びつきかねない、曖昧な意味のほとんどを、解読することが、出来る、と言う。

これは、宗教論文の一つであるから、次第に、神の存在と、自然についてということに、触れてゆく。

おもしろいやら、おかしいやら・・・である。

ミルの、宗教論には、17世紀以降の、独自に発展を遂げた、英国の、自然神学、自然宗教論の、伝統がある。

この、自然神学・・・

自然は、神が創り、その中に、神のメッセージが、込められているという、考え方である。

西欧の思想は、神学から、はじまる。
つまり、妄想の神学であるが、そこから、発展生成して、ようやく、マシになってきた、経緯がある。
それが、あちらの、伝統である。

勿論、そのためには、ギリシャ哲学の、恩恵がある。
ギリシャ哲学を、神学の基にしたのである。

ギリシャ哲学は、イスラム帝国にて、学ばれていた。
それを、逆輸入しての、おめでたさである。

西洋史が、主体ではなく、イスラム史が、主体だった。
西洋史を主体にして、歴史を、見ると、誤る。
イスラム帝国の、学問、芸術は、西欧を、遥かに、凌駕していたのである。

それらも、何も、武力が、問題であった。
武力の強い方が、優れていると、自賛する。

日本人は、すべてを、自然から、学んだという、実に、謙虚な民族である。
上記のように、考えずとも、問題なかった。

あらゆるものが、自然から、出ているのであるから、当然、自然崇拝、自然崇敬となる。
それは、学問、芸術、芸能に至るまで・・・

そして、多くを、言葉にしなかった。
それも、文化である。

言葉にしない、文化が、伝統であった。

だから、それを知るためには、所作を学ぶことである。
所作の中に、すべてを、込めたのである。

たった、一杯の茶を飲むのに、所作を創作した。
そこに、言葉の世界を、込めたのである。

ミルを、引き続き、読んでゆく。




posted by 天山 at 18:04| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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