2011年09月08日

神仏は妄想である。350

このように、神道の特性はその多様性にある。生命が多様であることによって、生命の進化を遂げ得たように、神々も多様であることによって、「修理固成」(古事記)し生成発展を遂げてきた。つまり、増殖と変容をくりかえし、仏菩薩が入ってきてもしっかりと蔓のように巻きついて神仏習合し一体化してきたのである。
神道のスピリチュアリティ 鎌田東ニ

その意味では、神道はハイブリッドそのものであり、キメラ化も異種交配もなんのその破天荒な生命活動を繰り広げてきた。その神道文化のありさまを「節操がない」と非難する人もいるだろう。明確な善悪二元論の立場や一神教の立場からすれば、その神々の跳梁跋扈する姿は「地獄の黙示録」のような魑魅魍魎世界に見えるかもしれない。なにしろ、蛇をサタンとしたユダヤ・キリスト教に対して、三輪山の神・大物主神を蛇の姿で表す神道文化は、邪神、邪宗の門であると決めつけられかねない要素を内包しているといえるから。
鎌田

もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る精霊観や自然観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからである。・・・
鎌田

精霊観、自然観を、アニミズムと、呼んだりするが、単純なものではない。
自然観と言うが、神道は自然宗教である。

ところが、自然と、言った途端に、受け入れられない。
西欧の宗教、キリスト教は、それを受け入れられない。
つまり、自然は、神の創造物であるから・・・

太陽崇拝は、偶像崇拝と、同じになる。

時代は、西欧キリスト教により、進んだ時期がある。
そこには、非常に強い、白人主義がある。
徹底した、人種差別主義である。

それが、唯一絶対神から、なる、教えである。
最高の宗教の形は、キリスト教であるというもの。

そして、今、それが、滅びに瀕している。
それでは、生きられなくなったのである。
世界は、グローバル化した。

更に、彼らの、豊かさの元である、植民地が、独立したのである。

実際、彼らが、持っていたものは、空の箱だったのである。
勿論、未だに気づかない白人主義というもの。

自然と、対立して、どうして、人類が、生き延びることが、できよう。
それでも、自然は、神の創造物なのである。

宇宙に、創造主が、存在するという、妄想は、限りなく、憐れである。
それは、人間の想像を、遥かに超えている。
そんなことを、考えることは、出来ない。出来ないから、それで、いいのである。

旧約聖書という、妄想から、抜け切れない。
天地創造の唯一の神、という、妄想である。

アフリカで、生まれた、その霊は、霊団を作り、モーゼと、契約した。
そして、ユダヤ人の神となった。
それが、唯一絶対の神・・・
民族の神である。

そして、神道は、それを、認めることができる。
要するに、産土の神である。

さて、自然である。
J・S・ミルという、19世紀イギリスを代表する、思想家である。
彼の、宗教論文に、自然論というものがある。
これは、明治期の日本人たちにも、大きな影響を与えた。

今、翻訳が、新たになり、紹介されている。
これから、宗教としての、自然観、また、宗教批判としての、自然観を、紹介する。

彼ら、西欧のキリスト教の自然観は、一体何ものなのか・・・

歴代のキリスト教の、神学思想を、批判しつつ、非常に格調高い論文になっている。

「自然」や「自然な」という語、そして、この二つの語から派生した語群、あるいは語源的にそれらに近い語は、いつの時代でも人類のなかで大きな場所を占め、人類の感情を強くとらえてきた。
ミル

この、自然という言葉は、道徳と形而上学の思索において、大きな役割を果たしている。それに、一連の語群に、元来の意味と、異なった意味が加わったこと、しかも、混同を招く程度に、元の意味と、結びついている、多くの意味が加わったことが、不運だったという。

「自然に関わる」それらの語は、元来なかった多くの連想のなかに巻き込まれ、しかも、その観念連合のほとんどが非常に強力でしぶとい性格のものであったから、いろいろな感情をかき立て、感情をあらわすシンボルになってしまった。
ミル

観念連合に、巻き込まれたゆえに、誤った好み、誤った哲学、誤った道徳、そして、悪い法律といったものまで、次々に派生させる、源流になったという。

要するに、自然そのものを、観察するのではなく、自然という、言葉に、大いなる誤った意味を、付与したので、その後、次々と、誤りが続いたのである。

ミルは、自然から、神の存在にまで、議論を高める。

神道による、自然観と、西欧の思想における、自然観との、相違である。

とくと、それを見るべきである。

創造物としての、自然と、あってあるべきような、自然との、相違である。

どちらが、大きな矛盾を抱え込み、それにより、大きな過ちを、繰り返してきたのか。

一見、神道が、混乱しているかのように、見えるが、違う。
混乱しているのは、西欧のキリスト教神学と、思想である。

更に、神道は、一切それらを、語ることなく、古神道以前から、続いてきた。
その、思想的なものを、所作に託してきたのである。
言葉と、所作の違いだけではない。

そこには、あまりにも、大きな乖離がある。
天地の差ほどの、乖離である。

そして、神道も、語れば、妄想になる。




posted by 天山 at 17:40| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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