2011年08月20日

神仏は妄想である。349

「神道」という言葉は面白い言葉である。しかしよくわからない。とても単純な言葉であるのに、その意味内容がよくつかめない。そのような言葉である。
神道スピリチュアリティ 鎌田東二

そんなことは、ない。
第三十六代孝徳天皇が、仏教と、区別するために、初めて、名づけたものである。

上記のように、考えるようになったのは、紛れも無く、西洋宗教学によるものである。

「神道」を素直に読むと、「神の道」と読める。それでは、その「神の道」とは何か?「神」は道を持っているのか?「神」はその「道」を作ったのか?「神」もまた「道」を辿る存在なのか?そもそもいったい、その当の「神」とは何ものなのか?そして「道」とは?
鎌田東二

そして、鎌田氏は、言語明瞭意味不明の「神道」を、二つの読み方を通して定義したい、と、書く。

一つは、「神からの道」もう一つは、「神への道」という。
「神からの道」とは、古来、日本人が「カミ」と呼び習わしてきた存在から生み出され、開けてきた「道」の謂であると、言う。
その意味では、「カミ」は「道」の元であり、「道」は「カミ」の転形である。「カミ」は存在の本質、「道」はその現象と言ってもいい、となる。

要するに、「カミからの道」とは、世界がこのようにあることの存在論やコスモロジーを表した言葉なのである。世界・宇宙・自然がかくのごとくに存在する。その存在のありさまを「カミからの道」として、「神道」と呼んだ。
鎌田

日本最古の存在論。「神道」の根幹に自然信仰があるのは、それゆえに、理の当然のことであり、そこには世界(自然)がかくあることの神秘不可思議への畏怖畏敬の念がもっとも素朴な形で表出されている、と、言う。

神道という言葉を、説明し、定義したいという、お気持ちは、理解するが、単に、神道とは、仏教と、区分けるための言葉である。

鎌田氏が、これほどに、言葉を尽すのは、饒舌な西洋思想に、影響を受けて、更に、作家的発想を持つからである。

まあ、それで、納得する人もいるのだろうが、最初の、カミ観念からして、欧米の神観念に、似るものである。

以前に、書いた、大和言葉の、カミという言葉の、意味を読み直して頂きたい。

日本の、カミという言葉は、日本の言葉である、大和言葉によって、説明するのが、正しい。

神道を、説明しようとする、熱意は、勿論、否定しない。
また、神話に関しても、誰が、どのように、解釈しても、いい。
専門家、学者だけが、正しいという訳ではない。
百人百様の、考え方があって、いいのが、神話である。

もう一つの「神への道」とは、「カミ」から発してきた存在の一つである人間が、存在の根源である「カミ」に還ってゆく「道」である。そこに祈りや祭りや感謝やお供えが生まれる。芸能・儀式・祭祀が発生する。人々の願いや反省や希求が現れ出る。
鎌田

このような、観念的なものではなかったはずである。
現実的、実際的なものだった。

あえて言えば、カミと、総称する場合は、祖霊たちのことである。
どうしても、神という存在の、観念論に、陥っている。

いや、神という言葉に、捉われている。
日本には、神というものは、存在しないと、言う。
その方が、すっきりする。

江戸時代に、国学として、屁理屈を捏ねた、その亜流に陥る危険である。
それは、仏教の教義に対決するために、言葉の世界を構築した、努力があるが、その必要は、無かったのである。

何せ、教義などは、皆無である。
そして、説明すれば、するほどに、神道から、遠のくのである。

理屈と、解釈を、重ねれば、重ねるほど、本質と、離れるのが、神道である。

何故、言挙げせず、と、宣言したのか・・・
それは、説明すれば、するほど、本質と、遠のくからである。
では、どうすれば、いいのか。

感じること以外にない。
それでは、説明にならない・・・
とは、西洋哲学の思考に慣らされた人たちが、言う。

説明好き、理論的・・・などなどと、そのような、観念を植え付けられたからである。
説明がつかないことが、あってもいいとは、考えない。
すべてを、説明し尽くすことが、正しいと、信じるのである。

人と人の、出会いなども、説明し尽くすことは、できないのである。
そして、説明しようとすると、変になる。
言葉にすると、伝わらなくなる。
沈黙することが、自然体なのに、騒ぐ事を、教えられたせいである。

言えば、言うほど、書けば、書くほど、遠のく・・・

それでは、私も、その一端を担うことになるのか。
違う。
私は、神道を、説明しているのではない。
神仏は妄想である、を、書いているのである。

それは、存在の本質とか、存在の歴史という意味を内包している。
鎌田

神道という言葉には、それがあると、書く。
それは、鎌田氏の自由であり、否定はしない。
そして、その努力も、賞賛に値するものである。

だが、私は、違う。
人間の考えることは、尽きることである。
書くことがあるとは、書けないこともあることを、言う。

何度も言うが、神道という言葉の、発生は、仏教と、区分けするために、出来た言葉であり、それ以外の意味を、みつける行為は、哲学的行為であり、思想的行為である。
否定はしないが、それでは、神道を誤る。

キリスト教神学が、ギリシャ哲学を元に、膨大に、語るが、果たして、それは、神学なるものに、かこつけた、人間の妄想力ではないかと、私は、言う。

神道に、スピリチュアリティを見出す行為は、それぞれの、自由である。
霊的なものを、感じるのも、個人の自由である。
人に強制しなければ、どんなに、妄想逞しくしても、いい。




posted by 天山 at 13:27| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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