2011年08月11日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 8

 いよいよ活動も最後である。
 永松さんから、塩竈の子供たちにと、クーピー(クレヨンのような色鉛筆)と、画用紙を頼まれていた。150セットというので、事務所の近くの文房具屋や、ネット通販で、何とか50セットは用意できた。画用紙も用意した。
 
 朝9時すぎに、永松さんが松島海岸駅まで迎えに来た。
 愛車はほこりまみれで、数ヶ月間の苦労がしのばれる。
 地震の後、津波が来るまで1時間ほどあったので、永松さんは東名の峠の高台に避難した。その上から、集落が飲み込まれるのを目撃した。わるいことに、津波は集落の上で渦を巻いた。これはダメだな、と思った。

 今日は塩竈へ、事務所から送ったクーピーと画用紙を届けにいくのだ。
 木村代表は、50セットほど送ったはずだったが、25セットしか見つからない。
 いちど、矢本のあったかいホールまで取って返した。
 松島海岸から矢本までは、海岸線を通る道と、山側を迂回する道とある。行きは山側を通った。途中で、助手席に座っていた旦那さんを降ろした。旦那さんの実家は、家丸ごと津波に持っていかれた。基礎工事部分さえ残らなかった。
 
 旦那さんと永松さんの会話の中で、部外者には分からない言葉がひんぱんに出た。
「水がのった」という。水がのるとは、どういう意味か。つまり、床下浸水にせよ、少しでも津波が家屋に上がったのなら、その家は、「水がのった」。その他、家屋の損壊の程度をあらわす専門用語が、日常会話の中に混ざっていた。非・被災者には通じない会話である。

 あったかいホールに着いた。荷物の集積所のようなところだった。あらゆる団体が入り混じって使用していて、荷物がかたまりごとに別に置いてある。しかしどれもこれも似たような段ボール箱なので、もしかしたらどこかにまぎれこんでしまったのかもしれなかった。

 クーピー探しはあきらめ、何となく、塩竈まで行く途中の被災地を巡ることになった。
 海までひらけた平野の中を、鳴瀬川がまっすぐに山の方へつづく。
 震災直後、橋げたには瓦礫がひっかかって、つまっていたという。
 川沿いに河口まで降る。右手に鳴瀬第二中学校の校舎が見えた。かんぽの宿もある。すっかり何もないので、永松さんの説明がないと、住宅街だったことや、松原だったことが、全くわからない。
 
 この原稿を書いているのは、くしくも8月6日の原爆の日である。
 たぶん、原爆のおとされた後の広島、長崎と、石巻から松島あたりの被災地の見た目は、あまりかわらないと思う。360度すっかり何もない。
 このあたりの事情は、もう自分の目で見てくれというしかない。
 自分の筆の力では、全く追いつかない。
 鳴瀬第二中学校の校門あたりに車を止めた。
 原爆の爆風を浴びてこうなったのだ、と説明されれば、素直に信じただろう。
 窓は吹き飛び、中はもう、ぐちゃぐちゃだ。ボランティアの人だろう、片付け作業を行っている人たちがいた。本当は体育館を見せたい、と永松さんは言ったが、作業中の人に気兼ねして、それ以上中に入らなかった。
 校庭らしい空き地に、どこから流れてきたのか、巨石がのっている。
 誰かが机を置き、その上に熊の置物や、沖縄のシーサーを飾っていた。
 せめてもの祭壇のつもりだろうか。
 
 とはいえ幸いにして、鳴瀬第二中付近では、亡くなった人はいなかった。
 車にもどりかけ、私の母校です、という永松さんの一言に、言葉もなかった。
 
 だだっぴろい中に、盛り土がしてある。作業車両のための道路である。瓦礫の山が見えた。ごみの山、また山。それでもまだここは少ない方だという。もっとすごいところがある。

 海の中道というのが福岡にある。両側が海で、そこだけ砂が盛り上がった海中道路である。まるでそんな風に、盛り土の道路の両側は海である。その中に奇観の島がある。きれいな浅瀬だな、と思っていると、ここ田んぼだったんですよ、と言われた。

 何度見ても田んぼには見えない。どう見ても海。盛り土の道路をずっと行くと、昨日散策しに来た東名の集落に出た。家の裏手まで海になっている。昨日はもとからそんなもの、と思ってみていたが、そこも田んぼだったのだ。

 かつての海岸線まで車をとばした。ずっと端の方だった。
 
 海沿いの国道にもどり、塩竈まで走る。
 塩竈につくと、今日のもう一人の案内者、永松さんのおばさんを車に乗せた。 
 行き先は保育園だった。0才3ヶ月や5ヶ月の乳幼児から、就学前の子供まで、94人ほど保育している。ちょうど塩竈神社の下あたりだ。おばさんからの差し入れのすいかも持っていく。

 保育園は、急な坂の下にあった。塩竈は坂が多い。山あり谷ありの複雑な地形だ。そのおかげで津波の被害も軽かった、とおばさんは言う。ふだんは坂ばっかりでいやだなと思っていたけれど…

 それでも、交差点にどこからか船が二隻着いていたり、被害はあった。また地盤沈下や、地盤上昇(?)がひどく、道ぞいに段差がかなりできていた。

 保育園に着くと、子供たちがなかで遊んでいた。クーピーと画用紙の入った段ボールを運ぶ。かなり重い箱なのに、かるがると運ぶ永松さん。さすがに違う。被災した直後の数日は、ストッキングで泥水をこして吸い物をつくった。

 園長先生が出迎えて下さった。何度も何度も感謝された。
 これからは、矢本に送らず、直接この保育所に支援物資を送ることにした。
 支援物資は、あるところには大量にある。しかしそれを受け取るには、しちめんどくさい手続きを経なくてはならない。避難所の中にいるうちは、そこで物資を受け取ることができるが、一度出てしまえば、もうおにぎり一つもらえない。もらうならば登録からはじめる必要がある。

 避難所にいる人と、出る人と、どう違うのか。
 簡単に言うと、避難所にいるのは楽なかわりに、プライベートが全くない。
 避難所から出ると、プライベートは確保されるが、何もかも自前で用意しなくてはならない。ペットボトルの水1本もらうのに、役所をたらいまわしにされ、自転車で走りまわらされた。

 保育所は、震災前は43人ほどの児童数だったのが、震災後、今では94人ほどに増えている。というのは他の保育所が閉めたので、受け入れるところが減ったからだ。保護者の中にも被災者が多い。

 避難所から出て、10数人単位で暮らしている、小集団の人たちには、支援物資はなかなか届かない。役所のまわりだけ、ものが豊富にある。

 菅野園長に、また来ますと告げて、車にもどった。
 ちょうど塩竈神社の下だったので、せっかく来たなら、と参拝することにした。
 塩竈神社は陸奥総鎮守の大社である。
 境内は広く、高台になっており、塩竈の港から海の島々まで見える。

 そこで、亡くなった方たちのため、黙祷させてもらうことにした。
 海に向かって頭を下げる。
 胸の内には何も浮かんで来ない。ただ気の済むまでそうしていた。
 背中で、鳥のとびたつ音がした。
 境内の鳩の群れが、いっせいに飛び立ち、海へ向かってはばたいている。
 目を閉じているが、音でわかる。
 なんともいえず、すがすがしい瞬間だった。
 これで、今回やることは、全て為しおえた気がした。

 塩竈神社の立派な本宮に参拝する。右側に別宮として、塩竈の名の由来になった、製塩法を伝えたという塩老が祀られている。本宮の方は、江戸時代ごろに、何が祀られているか名もないから、というので、適当に祀った神様がある。

 つまり別宮の方がもともとの信仰だった。同行の二人にきいたところ、創建はいつかもわからないほど古いという。本殿の門の前、海から見ればちょうど反対側に、二百数十段の階段がある。のぞくと、目もくらむような急坂だった。下の道路は、はるか谷底に落ち込んでいる。

 まるで天然の防波堤のようだった。
 じっさい津波は塩竈神社までは「乗らな」かった。
 はるか古代に想像がふくらむ。
 かつてこのあたりは、大和朝廷の影響の及ばない、蝦夷の土地だった。
 いわゆる大化の改新の後、蝦夷征伐が国家事業化したあとも、長いこと抵抗をつづけた。
 ただ文献は制服した側の方にしか残っていない。
 みちのくの古代文明については、遺跡をのぞいて記録がない。
 塩竈、松島から東北は、8世紀ごろまで原住日本人の高度な文化があった。
 塩竈神社を祀りだしたのも、そんな人々なんじゃないか。
 彼らは、もともと中央の政権を必要としていなかった。
 それは土地が豊かだったからだ。海があり、山がある。

 想像は一気に現代にとぶ。
 中央政権はかつてないほど無能である。
 たとえば、震災担当大臣のようなポストを、国会議員から選ぼうとせず、東北の有能な誰かに任せたらどうか。その方が、ことはさっさと進む気がしてならない。国会が決め、それを地方自治体に下ろし、さらに最小の行政単位へと下ろしていくうちに、政策はバカバカしさを増す。ときには現地の住民の生死さえ左右する。行政の不手際のせいで、生き残れたはずの命を落とす、それほどの無念はないだろう。

 東北のことは東北の人にきけ。
 被災地のことは、基本的に被災者にまかせよ。
 そんな英断が、いまの政権に出来るか。
 それだけの肝の据わった政治家がいるか。
 いやしない。 
 これ以上、国会議事堂の茶番劇に、被災者を巻き込むのは、二次災害である。
 木村天山に代わっていう。
 おわかりか。



×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。