2011年08月10日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 7



 山海の珍味を目の前に、名勝松島を窓の外に。
 一杯やれたら、まるで観光客である。
 低刺激性の温泉に入った身体はゆるくほぐされている。

 大松荘は、古くからある旅館だそうな。
 いまは、9割がた復興関係者が泊まる。
 観光で来てくれた客は、その日2、3人に過ぎなかった。

 震災ボランティアにしては、ずいぶん豪勢な食事だ。
 それでも、一日の終わりに、おいしいものと、あったかい風呂があるのは、ありがたい。
 一月前はパプア・ニューギニアで、毎日おいしくもない焼き飯を食べていた。
 ぜんぶ平らげて、米びつの残りは、おにぎりにした。
 中身は牛タン。ぜい沢なおにぎりである。

 酒がのみたい。
 何となく落ち着かないのである。
 このまま眠れそうにもない。

 予は口を閉じて、眠らんとしていねられず。
 松尾芭蕉は松島で眠れない夜を過ごした。俳句をつくる口も閉ざしたまま。
 私は事情も時代もだいぶ違うけれど、眠れない。
 夜の松島を見るのも一興と、ホテルを出た。
 たんにコンビニで安酒を買いたかっただけ。
 新月で月は見えなかった。松島の朧月夜は見逃した。
 布団を敷きに来た塩釜出身の青年にきいたのだが、スナックは震災後、みんな閉めた。
 
 温泉街にスナックがないのは、淋しいと思うのだが。
 ホテルのロビーにも、がたいのいい、肉体労働のおじさんたちが、行き場もなく座っているのを見た。復興の現場には、男がこんごも集まってくる。酒と、相手をしてくれる女性がいたら、どれだけ彼らの元気の源になるだろう。
 
 しんとした松島海岸を、端厳寺の方まで歩いた。
 バスから見えたコンビニは、歩くには遠すぎた。
 2軒、開いているレストランを見つけたが、お腹はいっぱいだ。
 自分の求めている雰囲気ではない。
 仕方なくホテルまでもどった。
 
 ふと見ると、食堂の明かりがついている。
 窓から中が見えた。テーブルの上に、一升瓶がのっているじゃないか。
 発見だ。迷わず中に入った。
 おかみさんが、もう閉めたよ、と言う。
 酒を一合だけ飲ませてもらえないか、と頼むと、よしの一言で座らせてくれた。

 カウンターに座る私の前に、一合のコップが置かれ、一升瓶からなみなみと、日本酒が注がれた。「おっとっと」とおかみさんは、こぼれるほど注ぐ。サービス精神おうせいな性格が知れた。それが、小舟のおかみとの出会いだった。

 松島海岸駅前の、かきが食べれる食堂「小舟」。
 銀髪で、細身のおかみは、ほぼ一人で食堂をやっている。
 店の中にも津波は来た。壁に水位をしめすしるしがあった。
 私の胸の高さか、のどもとくらいだ。

 3月11日、地震の後、小舟のおかみは車で東松島へ向かっていた。
 働いている女の子の子供が2人、そちらにいたからだ。
 渋滞する車の列を、津波が襲った。
 たまたま、小道に入っていたから、助かった。
 水が上がってきたので車から降りると、瓦礫が流されてきた。
 その上にとびのった。女の子も引き上げ、瓦礫から瓦礫へ飛び移って、高いところへ逃げた。おかみ は陸上をやっていたので、後ろを振り向けば、それだけ遅れるのを知っていた。とにかく前を見て走った。
 民家が見えた。一階はもう水が入っていたが、二階のひさしの部分は、まだ大丈夫だった。やっとそこまで辿り着いて、女の子を先に上げると、自分の足が1センチも上がらない。

 小舟のおかみの話をききながら、一合の酒を一口ずつ腹に納めていった。
 おかみの話は強烈だ。聞く方にもパワーがいる。
 午後10時をまわった新月の松島は、深閑としている。
 心理療法の心得が役にたった。

 人の辛い話をきくとき、ぜったいに自分の意見をはさんではならない。
 同時に、相手の話に飲み込まれてはならない。
 ちゃんとききながら、決していっしょになって嘆いてはならない。

 さて小舟のおかみの話はつづく。

 瓦礫をとびうつり、民家の二階の前までたどり着いた。
 女の子を先にあげ、自分も上がろうとしたが、1センチも足があがらない。
 というのは、着ていたつなぎが、ぐっしょりと海水をかぶっていて、鉛のように重くなっていたからだ。
 自分ではどうしようもなかった。
 先に上がっていた男性が、瓦礫の上に降りてきて、後ろから押し上げてくれた。
 それで助かった。

 その夜は、2階で明かした。他人の家だったので気がとがめたが、毛布を探してきて、身体に巻いた。ずっしりと重くなったつなぎは、申し訳なく思いながらも、その場に捨ててきた。

 女の子の子供2人は無事だった。
 次の日、開放された寺の中で再会した。母親の顔を見たとたん、疲れていたのだろう、そのまま眠ってしまった。寺の中は暖房がきいていて、あたたかかった。震災の日は雪が降っていた。

 小舟のおかみが、津波の中でみたものは。
 木に抱きついている女性。その人の助かったことがわかったのは、52日めのことだった。
 それから、渦にまかれ、車の中でぐるぐるまわっている男性。

 店の中は、電化製品も、テーブルも、何もかも流されていた。
 再開できるのか、と途方にくれたが、震災前から、会議で使うお客さんの予約が4月19日に入っていた。店の中がめちゃくちゃなので、と断ろうとしたが、どうしてもと言われた。2階を片付けて、何とか4月19日に営業再開できた。

 観光名所松島の海岸は、ヘドロだらけだったという。端厳寺の雲水たちが、ヘドロかき作業を行った。それでも、他の地域に比べたら、被害は軽かったそうだ。 

 松島湾には、260もの大小の島がある。古くから日本一の名勝といわれる由縁である。
 その島々が、津波を分散させて、松島海岸に来るまで、だいぶ勢いを弱めていた。
 観光資源として現地の人びとを助けてきた島々が、津波からも住民を護ったのだ。
 津波は湾の端の方をまわり込んで、横ざまに入ってきた。
 浮き桟橋が、考えられないようなところで発見された。
 どんなふうに水が動いたのか、今もってわからない。
 
 小舟のおかみの説はこうだ。1020年前の地形を見ると、塩釜神社の高台より低いところは、海である。そこを、人間のエゴで開拓し、住みなしてきた。それが津波でみんな元にもどった。1020年前の海岸線と、今回の津波の上がった線は、不思議なほど一致する。

 私は酒のさいごの一口を飲みおわった。
 おかみは、ボランティアの人には、本当に助けてもらった、という。
 本当に危なかった瞬間が、3回はあった。
 それでも生き残った自分は、何かでお返ししなくては、と思った。
 復興支援の人が来ても、食べ物がない。そんな人たちのために、日替わり定食をはじめた。最初はワンコイン、500円でやろうとした。しかしそれでは電気代その他、まったくもとがとれないので、600円とした。
 もともとかきで商売していた。しかし津波でかきの養殖場も流されてしまい、今年は例年の半分以下しかとれない。つづけていくので精一杯だが、つづけられるうちは、やろうと思う。

 被災地でもっとも深刻なのは、職がないこと。
 若い人は、他県に出て仕事を見つけることもできるかしれないが、おばさんたちは、本当に職がなくて、困っている。いま必要なのは、雇用を生み出すことである。
 小舟のおかみは、震災のあった当初から、誰にもがんばれとは言わない。みんなぎりぎり一杯でやっている。これ以上がんばれるはずがない。壁には、ただ「前進」と筆書きがあった。
 そう、瓦礫の上を後ろを振り向かず走った小舟のおかみだから言えること。
 前へ、前へ、前進あるのみ。

 その場では口に出さなかったが、雇用に関しては、アイデアがある。
 もともと松島は観光地だ。いまも、少しずつだが観光客がもどりかけている。
 私は、旅行会社が「被災地支援観光ツアー」を企画するといいと思う。
 被災したところに、観光で行くのは…と普通は思うだろう。しかし、地元の人は、遊びに来て欲しがっているのである。そしてできれば、松島だけ見て帰らず、その先まで足を伸ばし、180度、360度何もない現実を、その目で確かめてほしい。

 あまりほめられたものじゃないが、誰にだって怖いもの見たさ、がある。
 ハリウッドのパニック映画など、全くお話にならないほど、圧倒的な光景が、被災地にはある。地元の人が受け入れ態勢をつくって、どうぞ来て下さいと歓迎すれば、見てみたい人は星の数ほどいるはずだ。
 そして、ガイドとして地元のおばさん連中を雇う。体験者から直接話しをききながら、車で被災地をまわるツアーである。ボランティアを体験したいなら、それをオプションにして付けてもいい。

 具体的に、ホテルが部分的に再開している、松島を拠点にする。その先、矢本までは、むこう5年は電車が開通しないから、見てまわるのは、その周辺が適当だろう。一日見てまわっても、夕方までには宿まで戻られるのも利点である。

 そうして、宿でゆっくり温泉を楽しみ、宴会をやって、その日のことを話しあえばいい。観光地としてやってきた松島だから、すぐにでも受け入れ体制はつくれる。国内だけでなく、海外にも売り出す。世界中に流れた津波の映像は、まだ海外の人の記憶に残っているから、客はどんどん来るだろう。

 それが被災地の復興をうながす。傷ついた人たちを見世物にしている、と批判する者も出るだろうが、その時は地元の人が、はっきりと意志表示をすればいい。よけいな同情よりも、大切なのは雇用の拡大である。

 大松荘の風呂は11時までだったね、と小舟のおかみは、話を切った。いつの間にか10時半をまわっていた。一合の酒は600円だったが、夜遅くまで開けてくれたこと、もしスナックだったら一時間半も座れば、2千円ではきかないことを思い、千円札を置いて帰ろうとした。

 待って、と呼びとめられた。おつりの400円が、手のひらの上にのせられ、その上からぐっと両手でにぎりこまれた。震災のあと、10キロやせたというおかみが、気丈な笑顔をみせる。

「この400円を、また持って来ておくれ」

 …カッコよすぎないか、小舟のおかみ。私はまた必ず来ると約束し、宿にもどった。そのままぐっすりと眠り込み、8時半前に起きたときは、永松さんから電話が来ていた。



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