2011年08月07日

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅(事務局長代筆) 1



 4月ごろから、震災アレルギーがつづいていた。

 テレビやラジオで、新しく見つかったご遺体の数をきくたび、耳をふさぎたい気分だった。

 そのうち新聞も手にとらなくなった。どうせ見たって、昨日と今日と矛盾したことを読まされて目が疲れるだけ。

 そうして一ヶ月ほど過ごした。余震も数え切れないほどあった。もちろん今も続いている。映像や文章、写真で知る大震災関連ニュースには、心底いや気がさしていた。芸能人やスポーツ選手が避難所を訪れた話も、右から左にききながした。

 大震災のことを忘れるように、海外活動にうちこんだ。
 6月の終わり、パプア・ニューギニアから帰った後のことだ。
 原因不明の頭痛に襲われた。

 耳の付け根あたりから、首ねっこのところが、万力でしめつけられるように痛む。こらえるため、床によつんばいになって、喘息患者が息を必死で吸うように、身体全体で呼吸して、やっとこらえられた。

 熱を測っても微熱で、帰国後原因不明の下痢もつづき、もう体力も精神力も、保つのが精一杯だった。

 そんなさなか、もうろうとした意識の中で、心が決まった。
 被災地へ行かねばならない。
 そうしないとこの症状は改善しない。
 何故かそう確信した。

 そのころ不可解なことも身に起きた。
 いちばん辛いとき、東北の民謡をやたらとききたくなった。
 三味線や尺八、こぶしのきいた歌をきいて、大粒の涙をこぼした。
 明らかに、まともではない。

 そうしているうちに、宮城の被災者の方から、テラの会にメールが来はじめた。札幌で犬の調教をやっている知人が、被災地で迷子になった犬のための支援活動をしていて、私たちを紹介したという。

 それから宮城県矢本の「あったかいホール」という震災支援に使われている施設に、夏物の衣類などを送るようになった。受け取りの相手は、永松美幸さんという方で、東松島の人だという。

 外から来たボランティアではなく、地元の有志であり、「笑顔プロジェクト」を立ち上げた女性だった。

 永松さんのおかげで、7月31日から8月2日まで現地入りすることが、とんとん拍子に決まった。

 はじめはあったかいホールに宿泊できる、ということだったが、ただの倉庫みたいなものなので、寝泊りの設備はなく、諦めた。つぎは永松さんのご実家が、ご両親ともに仮設住宅へ移られており、空き家なので、嫌でなければ使って欲しいといわれた。

 夜、被災した集落の空き家で過ごす気分とは、どんなものだろう。
 幽霊が怖いということはない。余震も怖くない。
 ただ、誰もいない被災地のただ中で、ひとり過ごす夜は、考えすぎて内に入り込みそうで不安だった。まだ見ぬ震災の爪あとがどんなものかもわからなかった。

 だから、松島海岸に宿をとることにした。少々高くなるが、被災地の人の食べ物を横取りしたくないので、13.600円の、夕食・朝食付きのコースにした。

 古くからある大松荘である。こんな時期に松島にいく人など、いないだろうと思っていたら、どっこい、31日は満室だという。その9割が震災復興関連だとは、後で知った。1日は月曜日だったのもあり、予約がとれた。

 これで宿は確保できた。
 あとは用意して行くだけである。
 きっと被災者に渡す機会もあるだろうと、少年用のズボンや、ハンドタオルを、持っていけるだけかばんに詰めた。

 テラの会代表の木村は、「自分のやることじゃない」といって、同行しなかった。
 被災地では何より体力がいるだろうし、行って熱中症で倒れていては、逆に迷惑がかかると。

 そういう成り行きで、8月1日わたしは東北の被災地へ向けて出発した。
 支援の名のもとに、自分の震災アレルギー改善をはかる腹づもりもあった。

 またどんなボランティアが来ているのかも知りたかった。
 とあるラジオ関係者からオフレコの情報をもらっていた。
 被災地ボランティアは、昔のW大学のスーパーフリーみたいだと。

 そういう混乱もしっかり見届けたかった。



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