2011年07月29日

タイ、イサーンの姿3

私たちの、泊まったホテルは、いつも通り、安いホテル。
350バーツ、千円である。
だが、昔の造りで、部屋が大きく、エアコンも、温シャワーもある。

そして、目の前は、市場である。
それが、大変良かった。
市場には、屋台がある。そこで、一日一度は、食事をした。
30バーツ、90円で、山盛り食べられる。

ラオスで、三泊の予定が、ならなくなり、私たちは、五泊することになった。
その間に、オーナーから、その家族、従業員たちと、実に親しく付き合った。

特に、ベッドメークのおばさんは、実に親切だった。

朝早く起きる私は、隣の、高いホテルの朝食の時間に行き、コーヒーを頼む。
それを、外のテラスで飲みつつ、タバコをふかす。

朝は、市場に活気がある。
人々は、市場に買出しに出る。
野菜、魚、肉が、売られる。
果物のカットしたものがないのが、残念だった。

ホテルに、そのままを買ってきて、食べることはできない。
バンコクなどの、都市なら、必ず、カット果物の、屋台がある。
10バーツ、30円で、食べられる。

田舎の町の人たちは、英語は、通じない。
更に、タイ語も、違うという。
ラオス語に近い言葉である。というのは、ラオス語が、ここから、出たと、いう。
イサーン語である。

更に、イサーンは、タイ演歌の発祥の地。
モーラムといい、タイ全土で流行る。

モーラムの流れている処に、イサーン人ありということになる。

日本の演歌に影響されたものである。
だが、タイの人は、それを知らない。

ウボン・ラチャタニーは、勿論、寺院が多いが、モスリム、カトリックも、入っていた。
ここで一つ、バンコクから、遠くなると、仏教寺院が、ヒンドゥーの影響を大きく受けているということに、気づく。

仏陀ヒンドゥーと、呼ぶ。
例えば、寺院の壁面に、ヒンドゥーの神々が、彫られていたりする。

そして、この、仏陀ヒンドゥーを批判することは、出来ない。
とても、微妙な問題である。

ただ、一つだけ、気になることは、転生輪廻を信じて、現在の有り様は、過去生によるものであり、来世を幸せにするためには、タンブン、つまり、寺に、布施をしなければならないということ、である。

貧しい人を、助けるより、寺に寄付すること・・・
これは、現在のインドの考え方でもある。

更に、本当に苦しい人たちも、そのように、信じる。
そして、信じることで、辛うじて、生きられるという、事実。

ここに、問題がある。

だから、タイの福祉事業が、寺院に託されるということも、理解できる。
寺は、多くの布施を受けて、莫大なお金を得る。
それで、福祉政策を行わなければ、終わった思想となる。

私たちが、廻った、施設は、皆、個人の寄付によって、成り立っていた。
国が、政府が、福祉というものを、考えるべきだが、まだ、タイは、遅い。

それに比べると、日本とは、雲泥の差である。

日本の福祉事業は、充実している。

孤児が、街を一人で、うろつくことはない。
更に、物乞いもいない。

タイでは、それらの、人たちが、溢れるように存在する。

私は、町の一部を、バッグを持って廻った時、物乞いの人たちを、見た。
知的障害のある人、高齢者が、多い。

驚いたことは、一人の、知的障害の男に、衣服を差し上げた。
彼は、それを、受け取ったが、私が、彼の物乞いの袋に、お金を入れると、何と、衣服を返したのである。

その意味が、解らなかった。
お金を与えなければ、衣服を貰った。
お金を与えられたので、衣服まで、貰わない・・・

そこで、高齢の男に、衣服を差し上げて、お金を渡さなかった。
すると、彼は、正式な挨拶をして、私に感謝し、それを受け取った。

彼らにも、分相応という、感覚が、自然と身につけているのか・・・

だが、転生輪廻の考え方が、誤りであることを、伝えるのは、至難の業である。

単に、一人の人間が、生まれ変るということは、ない。
その人間の、霊が、その一部が、分霊して、新たに生まれる。
それを、理解するのは、容易ではない。

霊とは、四つの、総称であり、それを、魂と、呼ぶ。

私が、生まれ変って、次の人間になるということは、有りえないのである。
だから、この人生が、最初で、最後の人生なのである。

そして、簡単に言えば、未熟で、まだ、現世に在り、知るべきことがある、霊の一部分が、転生するのである。
分霊として。
一人の人間には、多くの分霊があると、考えてもいい。
要するに、肉体は、借り物なのである。




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