2011年07月24日

天皇陛下について。81

何故、マッカーサーが、新憲法制定を急いだのか。

前年の12月27日、モスクワで開かれた米英ソ外相会談で、ワシントンに極東委員会、東京に対日理事会を設置する事が決まった。前者は連合国十一カ国で構成される日本管理の政策決定機関で、後者は、連合国軍最高司令官の諮問機関だ。いわば、日本占領のお目付け役である。極東委員会の一部のメンバーは拒否権を持ち、その中にはソ連など天皇制に反対する国も含まれた。さすがのマッカーサーも無視する訳にはいかない。彼らが介入する前に、憲法改正の目処をつける必要があった。
徳本栄一郎

日本国憲法は、1947年5月3日に、施行された。

草案作成者たちは、旧憲法で天皇が保持した絶対的権限への批判を考慮し、彼の権限を影の力に縮小した。天皇は国のシンボルと表現されている。
九条の戦争放棄は、縁起が悪いが、(武力による国際紛争解決を禁じた)ケロッグ不戦条約に従っている。・・・これが実施されれば、日本は国連の安全保障体制に貢献する事もできない。
1946年7月19日、極東委員会文書

マッカーサーが進める日本改造に、次第に英国は警戒心を強めていった。
徳本栄一郎

1946年4月10日、新選挙法による、戦後初の総選挙が、行われ、鳩山一郎率いる、日本自由党が、第一党に躍進した。
鳩山内閣が、確実になった。
そこに、GHQが、介入した。

4月25日、対日理事会の非公式の会合が開かれた。
議長は、ジョージ・アチソン、戦前の中国に駐在した、米国人外交官である。
彼は、政治顧問として、日本に、派遣された。

アチンソ議長は、
連合国軍最高司令官は、特定の候補者や政党を支持するつもりはない。しかし、好ましからざる人物の首相に、閣僚就任には介入していく。
との、言葉に、各国の代表は、耳を疑った。

連合国軍最高司令官は、鳩山一郎を受け入れられない。幣原善重郎が最も妥当な洗濯だが、吉田茂や戸田均も可能性がある。
1946年4月25日、英国外務省報告

5月4日、GHQは、日本政府に、鳩山の公職追放覚書を発した。
戦時中の、軍国主義的発言などが、主な理由である。

選挙で信任を得た人物の総理大臣が、GHQの一言でひっくり返ったのだ。
そしてこの時も、日本国民には一言の相談もなかった。新憲法制定、総理大臣選出は、確実にごく一握りの米国人によって、決定づけられたのだった。
徳本栄一郎

1947年1月21日、ロンドンから、新任に駐在英国代表である、アリバリー・ガスコインが、東京に入っていた。

マッカーサーからの、昼食の誘いを受けて、二人は、じっくりと、話すことが出来た。

マッカーサーは個人的意見として、裕仁は、現政権や国民の誰より民主的、進歩的だと語った。彼によると、天皇を残して利用する1945年の連合国の方針は百パーセント成功した。また天皇を戦犯として投獄、召還する事は道義的に間違いだった。裕仁自身は、戦争の立案、実行に関わっておらず、西園寺や牧野ら側近や軍国主義の完全な支配下にあったと言う。
1947年1月22日、英国外務省報告

そして、マッカーサーの話は、天皇との、会見の話しに及んだ。

ガスコインは、平静を装いながら神経を集中させた。マッカーサーは、以前から抱いていた疑問を、直接天皇にぶつけてみたと言う。
「そこまであなたが戦争に反対していたなら、なぜマイクの前に立ち、その旨を宣言しなかったのか」
天皇が答えた。
「歴代の天皇で、側近の意見に反して行動した者はいません。1941年の時点で、もし私がそんな行動を取れば、間違いなく首をかき切られていました」
英国外務省報告
以上、徳本栄一郎

昭和天皇独白録
かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考えが決定的になったのは事前の勢と云わねばならぬ、もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、ムザムザ米国に屈服すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう。
現代語訳は、私。

英国政府は、マッカーサーが天皇を高く評価している事、日米開戦の直前、天皇が本気でクーデターを心配し、それが開戦に反対しなかった理由と分析したのだった。
徳本栄一郎

さて、実に面白い話がある。

1948年7月6日、駐バチカン英国公使館は本国外務省に、一通の報告書を送った。ローマ教皇と天皇の接触を知った英国政府は、教皇庁幹部に確認を迫った。全世界のカトリック信者の頂点と天皇の関係は、見逃す訳にはいかなかった。
徳目栄一郎。

実は、天皇は、戦争終結の場合の、手段を、想定していたということである。
その具体的な手段として、ローマ法王庁を想定していた。

昭和天皇独白録
開戦后、私は「ローマ」法王庁と連絡のある事が、戦の終結時期において好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あることならびに「ローマ」法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なることを考えて、東条に公使派遣を要望した次第である。
現代語訳は、私。

昭和17年4月、特命全権公使となったのは、原田健である。

ともかく、このローマ法王庁への公使派遣は、天皇が開戦まえに、その「戦争終結」にさいしての手段を予め考えていたという意味で、畏るべき思考である。改めていうが、能吏ではあるが軍人官僚の東条には、こういう思考はまったくなかった。「知性」の人であっても、政治家としてはまことに力量の劣る近衛文麿にも、この種の発想はなかった。
畏るべき昭和天皇 松本健一

ということで、天皇は、法王と、どのような、関係を築くことになったのか。
非常に、面白いのである。




posted by 天山 at 00:08| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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