2011年07月19日

神仏は妄想である。344

神道が、限りなく、伝統行為に近いこと。更に、建物を、持たないものとの、前提で、建物を作り始めたことを、見てゆく。

土地の霊、地霊を、奉る。
産土とも言い、氏神ともいう。更に、村の鎮守の神様である。
それら、社を作り奉る。

それは、農耕定住民族である、古代の日本人の、風習を作るものになった。
そこまでならば、まだ、許容範囲を持って、認めることが出来る。

だが、それから、である。
稲荷、八幡、雷神と呼ばれた、菅原道真を奉る、社が造られる。

稲荷は、伊勢神宮の外宮、豊受大神の、眷属としてある。
だが、それが、次第に、妖しくなっていく。
単なる、狐の霊を奉るところもあるのだ。

八幡は、渡来の神である。つまり、中国、インド系などの、複合した、霊を奉る。
これは、特に、問題がある。
だが、大和朝廷は、この宇佐八幡神を、とても、大切にした。また、その、霊示を、頂くのである。

八幡神に関して、学者たちの、妄語は、あまりある。
霊感の無い者が、いくら、研究しても、解るはずがない。

八幡宮辺りから、大きく、神道が、堕落するのである。
建物・・・
それは、中国、インドにては、神の威力を示すものである。

自然は、その威力をあえて、示す必要は無い。神道は、それであるのだが。

さて、菅原道真である。
左遷されて、恨みの死を迎えた。それによって、都に、祟りが起きたと、考えた。
そこで、ある学者は、日本の宗教は、恐れの宗教だと、言う者もいる。

祟りを起こすモノの霊を、奉り、その祟りを鎮めてもらう・・・
ということは、荒ぶるモノも、神として、奉るということである。

更に、それらは、現世利益を主とする。
現在も、そのようである。
現世利益など、全く、神道とは、関係無い。

神道は、自然からの、恵みを最も大切にして、それ以上の要求などないのであるから。

稲荷、八幡、雷神、つまり、天神ともいう、それらは、多くの土地に、勧請されて、広がり、元々の土地の神社は、単なる、社として、飾りになるのである。

ただし、明治期までは、まだ、素朴な信仰形態を、保っていた。
明治政府によって、それらの神、社は、祭神を、記紀に合わせるようにと、神社本来の、あり方に、圧力を掛けて、各地の神社は、伊勢神宮の元に、統一、管理されることになるのである。

これで、更に、神道は、堕落することになる。

神社とは、何者かによって、管理、統一されるものではない。
自然発露としての、社であった。

簡単に言えば、村人の、集いの場であり、相談や、会合の場としても、機能していたのである。

政府によって、特定の神の名の下に、信仰を強要されるものではない。

その、堕落とは、組織と、統一によって、神社に仕える者たち、つまり、神主などの、管理統合である。

今は、おおまかな、神道の歴史を見ている。
後で、細かな、神道の妄想を、書く。

神道の、供え物・・・
これが、驚きである。

唯一、紙を、捧げた。
幣帛である。

麻を使用して、神の紙とも言われる、幣帛を捧げ物にするという。
後々で、神前に捧げる物が、複雑になってゆく。
それも、勿論、堕落である。

神社は、祭りを執り行う場所である。

さて、冬とは、フユであり、それは、万物が忌み籠もるという意味であり、その期間は、万物の再生を持つ期間として、フユと、呼んだ。

それは、「御魂の殖ゆ」、みたまのふゆ、として、新たな命が、殖える時期なのである。

そこで、冬には、力の弱い太陽を、復活させるという、様々な、祭りが、行われた。

太陽祭祀とも、言うべき、お祭りは、各地方で、それぞれの、伝統的な形で、行われる。

鎮魂祭というものも、その一種である。
それは、また、天皇の霊力を賦活させるものでもあった。

そして、冬至を過ぎると、太陽が復活する。
万物に春が、訪れる。

この、春を、祖霊を迎えて、お祭りするのである。
新年の豊穣を願い、祖霊祭りを行う。
正月の行事である。


大和言葉では、ハル、は、ハレであり、木の芽、万物の新しい芽が、張る、のである。

やがて、農作業の時期がくる。
春の、祈年、としごい、の、祭りがある。

春から夏にかけて、万物は、活動のピークを迎える。
そして、秋は、収穫の時期である。

秋、アキ、は、飽き食い、あきくい、と、呼ばれ、収穫したものを、自然霊、祖霊と、共に食す祭りが、行われる。

食物による、エネルギーを、食い、我が身に、そのエネルギーを引き込み、御魂の殖ゆ、に、備えたのである。

ここで、私は、あえて、歳神という、言葉を使用しなかった。
すべて、この歳神、つまり、年の神に、掛けて、説明されるのだが、それは、中国、陰陽道、道教の影響を受けた、説明である。

中国思想によって、説明されると、誤る。
とても、妖しいものになるのである。




posted by 天山 at 05:18| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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