2011年07月15日

もののあわれについて。524

夕つ方、神事などもとまりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参り給ふ。雪うち散りてえんなる黄昏時に、なつかしき程になれたる御衣どもを、いよいよたきしめ給ひて、心殊にけさうじ暮らし給へれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。




夕方、今年は、神事なども、中止になり、気が晴れず、することも無い思いに、たまりかねて、五の宮の御方へ、またも、お伺いする。
雪がちらつき、心の弾む夕暮れに、着慣れて柔らかくなった、お召し物を重ねて、いよいよと、香をたきしめて、更に、入念に、身ごしらえに日中を過ごしたので、ますますと、気の弱い女であれば、たまらないと思える、美しさである。




さすがに、罷り申し、はた聞え給ふ。源氏「女五の宮のなやましくし給ふなるを、とぶらひ聞えになむ」とて、つい居給へれど、見もやり給はず。若君をもてあそび、紛はしおはする、側目のただならぬを、源氏「あやしく御気色のかはれる月ごろかな。罪もなしや。しほやき衣のあまり目なれ、見立なく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」など聞え給へば、女君「馴れ行くこそげに憂きこと多かりけれ」とばかりにて、うち背きて臥し給へるは、見捨てて出で給ふ道もの憂けれど、宮に御消息聞え給ひてければ、出で給ひぬ。




それでも、女君、紫に、お出かけの、挨拶をされる。
源氏は、女五の宮が、わずらっていられるので、お見舞い申し上げに、と、軽く膝をついて、おっしゃる。が、振り向きもしない。若君を相手に、あやしている横顔が、ただならぬ様子に、源氏は、変に、ご機嫌の悪くなったこの頃です。思い当たることはないが、しほやき衣の、馴れ馴れしくなるのも、飽きられてしまうかと、わざと、家を空けますが、それも、どのように、邪推されるのか、など、仰せになると、女君は、ほんに、慣れ行く、のは、悲しみの多いこと、とだけ、おっしゃり、顔を背けて、横になったので、そのまま、構わずに、出るのも気になるが、宮に、お手紙を差し上げているので、出掛けるのである。

しほやき衣
須磨のあまの 塩焼き衣 なれ行けば うとくのみこそ なりまさりけれ

更に、源氏は、藤壺の喪中ゆえ、鈍色の喪服を着ている。

それにしても、浮気をするために、出掛ける、源氏の様子・・・
それに、紫の上が、嫉妬する。
浮気に到っていないが・・・

このやり取りは、現代でも、見られる光景である。




かかりける事もありける世を、うらなくて過ぐしけるよ、と思ひ続けて臥し給へり。鈍びたる御衣どもなれど、色あひかさなり好ましくなかなか見えて、雪の光りにいみじくえんなる御姿を見出して、まことかれまさり給はば、と、忍びあへず思さる。




このような事もある、世の中だと、無邪気に過ごしていた、と、女君、紫は、思い続けて、横になっている。
源氏は、鈍色の装束だが、その色合いも、重ねての濃淡も、喪服なのに、かえって感じよく、雪の光に、素晴らしく、心ひかれる姿を見送り、もし、源氏が、遠のいてしまったらと、我慢出来ない気持ちになるのである。




御前など忍びやかなるかぎりして、源氏「内より外のありきはもの憂きほどになりにけりや。桃園の宮の心細きさまにてものし給ふも、式部卿の宮に年頃はゆづり聞えつるを、今は頼むなど思し宣ふも、ことわりにいとほしければ」など、人々にも宣ひなせど、供「いでや、御すき心の旧りがたきぞ、あたら御疵なめる。軽々しきことも出で来なむ」など、つぶやきあへり。




前駆なども、内々の人たちだけにして、源氏は、御所以外の出歩きは、気の進まない年になってしまった。桃園の宮が、頼りなげな様子で、暮らして、今までは式部卿の宮に、お任せしていたが、これからは、よろしく、などと仰せになるのも、無理も無いこと。お気の毒だ、などと、供の人たちにも、取り繕う言葉である。供人は、いやはや、好き心が変わらないのが、玉に疵と申すもの。今に、困ったことも、起こるだろう、などと、呟き合う。

源氏の、好き心は、皆に、見透かされている。
それが、また、面白い。

何とも、平和な情景である。
それは、取りも直さず、平安期の、様子である。

戦の場面が無いという、物語である。
ただ、人の心の、微に、筆を進める。

日本文学の、最高峰である、源氏物語の、骨頂である。
人の心の、微を、あはれ、と、表現して、総まとめにしている。

後に、この心の、あはれ、の、模様が、百面相になり、更に、あはれ、は、日本文化のあらゆる場面で、表現されるようになる。

これほど、一つの言葉を、追求した、文化も無い。
そして、現代でも、その、あはれ、の、諸相が、様々な形において、表現される。
それを、感動という。

あはれ、に、感動する心を作り上げてきた、日本人なのである。

千年を経ても、それは、変わらない。
それを、私は、信じられるのである。

敵にさえ、あはれ、の、心をかける・・・という、武士道も、あはれ、なのである。



posted by 天山 at 06:33| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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