2011年07月11日

もののあわれについて。521

源氏「山がつになりて、いたう思ひくづれほれ侍りし年頃の後、こよなく衰へにて侍るものを。内の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、あり難く見奉り侍れ。あやしき御おしはかりになむ」と聞え給ふ。女五「時々見奉らば、いとどしき命や延び侍らむ。今日は老も忘れ、うき世の嘆きみな去りぬるここちなむ」とても、また泣い給ふ。女五「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見奉り給ふをうらやみ侍る。このうせ給ひぬるも、さやうにこそ悔い給ふ折々ありしか」と宣ふにぞ、少し耳とまり給ふ。源氏「さも侍ひ馴れましかば、いまに思ふさまに侍らまし。皆さし放たせ給ひて」と、恨めしげに気色ばみ聞え給ふ。




源氏は、田舎者になりまして、全く元気をなくして、おりました、あの年月の後は、すっかりと、駄目になりましたのに、主上のご器量は、昔にさえ、比べられる者は、ないとまで、結構に拝します。とんでもない、考え違いですと、おっしゃる。
女は、時々、お目にかかれたら、こんな年まで、生きながらえた命が、また、伸びるかもしれません。今日は、老いも忘れ、この世の悲しみが、皆消えてしまった気持ちです、と、おっしゃっては、泣く。
女、三の宮は、羨ましい限りで、離れないお方が出来て、いつも親しく、お会いになっていらっしゃるのを、羨んでおります。この亡くなられた宮も、そう言っては、時々、後悔していました、とのお言葉に、はじめて、少し耳を止められた。
源氏は、そういう風に、出入りさせていただいていましたら、今も、嬉しいことでしたのに、どなた様も、お構いにならぬようで、と、恨めしく、気を持たせた、言い方をするのである。




あなたの御前を見やり給へば、かれがれなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかなるながめ給ふらむ御有様容貌もいとゆかしくあはれにて、え念じ給はで、源氏「核侍ひなるついでを過ぐし侍らむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御とぬ゛らひ聞ゆべかりけり」とて、やがてすのこより渡り給ふ。暗うなりたる程なれど、鈍色の御簾に、黒き御凡帳の透き影あはれに、追風なまめかしく吹きとほし、けはひあらまほし。すのこはかたはらいたければ、南の庇に入れ奉る。




あちらの庭に、目をやると、うら枯れた庭の、草花の風情も、格別に、情緒あるように見えて、心静かに暮らす、姫の様子も、器量もしのばれて、早くお目にかかりたいと、我慢が出来ない。
源氏は、このように、お伺いしたついでに、お寄りしませんでは、気持ちが足りないようでございますゆえ、あちらのお見舞いをいたしましょう、と、おっしゃり、そのまま、縁を伝って、渡られる。暗くなりつつある頃で、にび色に縁どられた御簾に、黒い凡帳の、ほのめく影も、胸を打つ。なまめかしい薫物の香りが、漂う気配も、申し分ない。縁側では、不都合なので、南の庇の間に、入れた。

いと ゆかしく あはれにて
現代語では、訳しきれない。

透き影あはれに
現代語では、訳せない。
共に、状況と、心情を合わせ持った、感覚で、あはれ、と、表現する。

その状況を、あはれ、に、見渡されるということになり、あはれ、と、見る心の風景を言う。
余程、心に染み入る風景である。
つまり、風景に共感し、更に、我が心の有様を、深めるのである。
心の、有様を、深める時に、様々な、形容詞が、使われるが、あはれ、と、統一するのである。

そして、それは、読む側に、委ねられる。

読む者も、その情景に共感し、そこに、入るのである。
高い、共感能力が、必要になる。

それを、単に、しみじみとした、気持ちと、訳すことは、限定することになる。

更に、今度は、しみじみ、とは、何かという、問いを生むことになる。
だから、あはれ、は、あはれ、いい。

言うに言われぬ思いだから、あはれ、なのである。
そして、言うに言われぬ思いを、人間は、持つものであるということ。
ぎりぎりのところまで、追い詰めた、あはれ、なのである。

共感という、心の働きを、凝縮した言葉が、あはれ、である。

私は、迷いの極地を、観たものだと、思う。

源氏物語は、もののあはれ、の、文学だと、言われる。
しかし、その前に、物語は、歌の道を見つめている。
その歌の道は、和歌である。
極めて、言葉、いや、音の、限られた、言の葉、シラブルによって、成り立つ歌の道の世界を、物語として、語る。

それは、結局は、削り取れるだけ、削り取り、最後に残る、言葉としての、あはれ、に結集するのである。

その、あはれ、を、語り切るとしたなら、日本のすべての、文学、書き物を持ってきても、終わらない、言葉の世界が、広がる。
語り尽くせぬ思いというものを、持つのが、人なのであるという、あはれ、という言葉に、託した、知恵である。

日本文化、特有の、言葉遣いなのである。
永遠に、語り続けることが出来る、言葉を、日本人は、発明したといってよい。

万葉集、舒明天皇御製から、今年、2011年で、1383年を経る、そして、源氏物語成立から、1002年を経る。

それ以後、膨大な、文学と、書き物が、著された。
それを持っても、なお、足りないという、あはれ、という言葉を、有した、日本の文化は、更に、深まり、深まり行くのである。

語り尽くせぬものが、ある、という、日本の伝統文化とは、なんと、素晴らしく、凄いものなのか、である。

そして、それを、楽しむことが、出来る、文学という、上に置いた。
文の世界、歌の道こそ、ゆかしけれ、なのである。
そこには、何一つの、限定も無いのである。




posted by 天山 at 09:28| Comment(0) | もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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