2011年06月27日

パプアの叫び 9

昭和二十年(1945年)八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。
八木弥太郎

そして
見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変わっていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。
八木弥太郎

それから、武装解除が、行われ、日本軍の武器が、ラバウル・ココポの沖合いに、捨てられた。
そして、生き残った兵士たちは、捕虜として、扱われることになる。

しかし、捕虜になっても、マラリアで、命を落とす者もいた。

捕虜生活は、毎日の、肉体労働である。

各人の行く先や課せられる仕事は一定していなかった。豪州軍の使役を割り当てられた者は、相手が日本軍をひどく憎んでいたので、行く先々で苦労をした。仕事の中味もきつかったが、土を掘っていると後ろから腰を蹴られたり、足もとに自動小銃を撃ち込まれたりした者もいた。彼らとすれば交戦時の延長で、鬱憤を晴らしているつもりなのだろうが、こちらから見れば抵抗できない者への八つ当たりとしか映らなかった。
八木弥太郎

更に、食事である。
そこで、ある意外なことが起こったと言う。
戦勝国の中国兵も、そこにいた。

日本兵が、飯盒を開けて食べていると、一人の中国兵がやってきて、飯盒の中を見て、その甘藷を捨てて、こちらへ来いという。
中国軍の幕舎であり、地面にゴザが、敷いてあり、大きな鍋が二つ置かれていた。
一つには、真っ白なご飯、もう一つには、肉と野菜を煮込んだもの。

兵隊たちの、食べた後の残りである。
それを、食べろという。

更に、残ったものを、持って、他の兵士にも、食べさせろと、言った。

その中国兵は、日本軍と、戦った時の傷を見せたが、こう言ったという。
私は、日本を怨んでいない。中国と日本は、隣同士の国である。皮膚の色も同じだ。これから、互いに、仲良くしてゆかなければならない。日本は、必ず、立ち直る。我々は勝ったといっても、決して、白人の軍隊を味方だと、思っていない。と。

米、豪、中、そして、英国、オランダ軍もいた。
その中で、中国兵は、差別を受けていたという。
中国軍は、おまけ、で存在するといった、雰囲気だったと、八木氏は、書く。

八木氏は、昭和21年4月14日に、帰還する船に、乗船した。

嘘のような、出来事に思えたという。

ところが、ここで我々は大変な光景を見てしまった。船が港を出て岬をまわり始めたとき、目の前に現れたのは、山麓に鉄格子を張り巡らした中で手を振り号泣している大勢の日本兵の姿である。戦犯と見なされ収容された将兵がいるということは聞いてはいたが、こうして見るのは初めてだった。
一瞬甲板はしーんとなり、声が止まった、やがて「元気でいろよー」と怒鳴る声がし、それをきっかけに口々に励ます声が叫び声となって沸き上がった。その声は船が岬をまわり終わって、陸地の人影がまったく見えなくなるまで続いた。
八木弥太郎

帰還する者、残る者

多く、引用したい箇所があるが、八木氏の、考え方を記して、終わる。

一方また、私の持つこの思いは、かつての戦争を知らない世代の人々から見れば、過去の別世界の人間の繰言としか映らないであろうし、何故そんなことにそれほどこだわるのか、理解に苦しむといわれてしまうものなのかもしれない。ましてや戦争がすでに遠い過去のものとなった今日では、歴史として戦争批判や議論だけは盛んになっても、同時の若者たちの「無念」につながる心の深層にまで思いをいたすことは少ない。それどころか、そんなことは戦争論議からはずれた抹消のことではないかとさえ言われそうである。
しかし、当時の大部分の若者たちは、いわば濁流のような大河に呑み込まれながらも、抗する術も知らず、やがて茫洋たる大海に出られる日の来ることを信じて戦場に赴いたのである。・・・

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。
私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとからげの賛辞でたたえられようが、あたかも当然であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消えることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。
一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどう言ってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。
八木弥太郎

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏み付け踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだということだけは知っていてもらいたいと思う。
八木弥太郎。

八木氏は、俳句を得意としていた。
戦場でも、俳句を作っていた。

帰還し、祖国に帰ってからも、病魔に冒され、それでも、生きる事が出来た。
人生の後半になって、はじめて、当時のことを、書いておくべきだと、筆を取られた。

この手記によって、私は、知らないことを、知る事が出来た。
感謝する。

帰らばや 遺品(かたみ)なれども 雲の峰
八木弥太郎

次ぎは、東部ニューギニア戦線に、慰霊に行くことにしたい。



posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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