2011年06月23日

パプアの叫び 4

ラバウルというと、南洋の小さな島の名のように思っている人が意外に多いが、パプアニューギニアの東、赤道から南へ五度下がったあたりに、東北から西南にかけて500キロの長さで横たわっているニューブリテン島の東北の端にある街・港の名称である。
海峡を隔てたその東側から北にかけては、ニューアイルランド島という島があり、向き合ったこの二つの島には英本国の名がつけられている。第一次大戦まではドイツ領だったので、今でもこのへんの島々を総称してビスマルク諸島という名が残っている。
ニューブリテン島の大きさは日本で言えば九州ぐらいに相当し、さしずめラバウルは、北九州市あたりに位置しているということになる。
ラバウル南冥記 八木弥太郎
改行は、私。

現在は、ラバウルより、隣町のココポが、主たる街になっている。
火山の噴火により、街の大半が、壊滅したという。

当時は、ラバウル南飛行場、そしてココポがあった。

高い建物のない、田舎の街である。

新ラバウル空港は、ココポから、南に、車で20分ほどのところにある。

昭和18年1943年も暮れ近くになると戦局はとみに緊迫してきて、二ューブリテン島の各所にも米豪軍が上陸してきた。海峡を挟んでニューギニア島と対するツルブ地区あるいはマーカス岬など、九州にたとえれば、鹿児島や宮崎、熊本さらには大分あたりに相当する地点が激しい地上戦の場と化した。
そしてこれからの地域の日本軍は、兵力、火力、食糧すべての点で圧倒的に優勢な米豪軍の前に、一部は玉砕したが、生き残った者はラバウルへ向けて撤退することになった。
遠いところで500キロ、近いところでも200キロの道のりを一ヶ月から三ヶ月かかって引き揚げてきたが、文字通り死の行進だったようである。
飢餓、病魔、豪雨による川の氾濫、鰐、泥滞の道など、それらによって途中脱落した兵士の数は何千とも言われ、屍は累々として酸鼻をきわめたという。
八木弥太郎
改行は、私。

病気は、風土病とマラリアである。
戦うより、それによって、命を落とす兵士も、多かったのである。

私たちも、マラリア対策のために、蚊取り線香から、虫除けのスプレー、塗り薬を準備していった。

コータが、一晩中、蚊取り線香を、部屋で焚くので、私は、燻製になるのではないかと、思ったほど。

コータは、完全防御体制である。
私は、部屋の中では、上半身裸・・・
そんなの・・・やってられない・・・

さて、出掛ける前と、出掛けた後で、戦記を読む。
そして、出掛けた後の、戦記は、益々、身に沁みる。

日本側だけを、見るのではない。
敵国として、戦った、相手方の、兵士たちのことも、考える。

敗戦した日本は、確かに、大変な犠牲者を出したが、戦勝国も、多くの犠牲者を出した。
それが、皆、若者たちである。

過ぎた戦争の、是非、批判、評論・・・色々と、ある。しかし、その時点で、それに、直面した、若者たちの、心の内を、誰が知る。

大きな、歴史の波の飲み込まれたのである。
勿論、今も、大きな歴史の波に、飲み込まれている。

だが、戦争は、その大きな流れにあって、抗えない、不可抗力であった。

三度目の、慰霊の際に、私は、海の中に身を入れて、黙祷した。
すべての、犠牲者のために・・・である。

この黙祷は、歴史との、対峙でもある。

私は、別のエッセイにて、天皇陛下について、を、書いている。
ただ今は、第二次世界大戦の、開戦に到る状況を、見つめている。

避けられなかった、戦争という、意味を知ることになる。
そして、そこには、大国の思惑、国益・・・というものが、見えるのである。

更に、世界支配への、野心である。

特に、激しい問題は、人種への、偏見の問題である。
人種差別。
これが、戦争、また、植民地支配の底流にある。

だから、日本が、国際連合の際に、人種差別撤回を、訴えたことは、実に、画期的なことだった。
そして、それを、日本は、その身を犠牲にして、西欧のアジア諸国の植民地支配に、終止符を打った。

世界で、唯一、日本だけが、植民地支配に関しての、謝罪外交を繰り返してきた。
しかし、本来、謝罪すべき、欧米諸国は、一切の、謝罪は、無い。
それも、人種差別から、発していると、私は、思う。



posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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