2011年06月22日

パプアの叫び 3

ラバウル・ココポに着いて、翌日は、まず、戦争犠牲者の追悼慰霊である。
私は、毎日、慰霊を行うことにした。

ホテルから、歩いて、すぐに、ビーチがある。
そこからは、ラバウルの火山が見える。
そこで、まず、最初の慰霊の儀を執り行った。

いつもの通り、神紙を、手ごろな枝に付けて、御幣を作り、日の丸を掲げて、この、ニューブリテン島の、日本兵の慰霊を行う。

何度も、書いたことだが、私は、何も、供物などを、置かない。
祭壇も、作らない。
ただ、心のみである。

更に、特別な祝詞は、作らない。

本来、神主は、その場に合った、祝詞を作り、献上する。
だが、祝詞というのは、実は、天皇から頂く言葉である。
要するに、詔である。

上の側からの、言葉が、祝詞である。
しかし、その後、中臣氏が、大祓えの祝詞を、作成した。
私には、それで十分である。

何故なら、本来は、黙祷で、十分だからである。
それ以上のことは、僭越行為である。

たかあまはらに かむずまります すめみつ かむろぎ かむろみのみこともちて
やおよろづのかむたちを ・・・

または、私が、簡略化した、祝詞を唱えることもある。

あまてらすおほんみかみ しずまりませる みなかに ありませる はらいどのおおかむたち・・・

更に、この地を、収める、産土のカムをお呼びする。
そして、兎に角、祓い清めを、行う。

その後で、兵士の皆さんに、語り掛ける。

この、ニューブリテン島にて、亡くなられた、兵士の皆様の、霊位に対し奉り・・・

ちなみに、ここは、昔、ビスマーク・ソロモン諸島と、呼ばれた。
犠牲者は、11万8700名である。
そして、残存遺骨概数は、6万2390名である。
つまり、6万2390名の、兵士の遺骨が、日本に戻っていないのである。

その遺骨は、ジャングルの中に、放置され、自然と、化しているだろう。

勿論、その中には、慰霊の思い篤く、遺族によって、祖国に戻りたまう霊位も、いるだろう。しかし、もし、その苦痛の中で、未だに、この場、この島に、留まる霊位も存在するだろう。
私は、その霊位に対し奉り、祝詞を上げて、清め祓う。
それは、浄化であり、帰るべき場所に、お送りするものである。

そして、それは、私の自己満足かもしれない・・・
だが、せずには、いられないのである。

その日から、私は、毎日、場所を替えて、慰霊の儀を執り行った。

その翌日は、ホテルの前の、小高い丘に登り、行った。
同じく、日本兵の霊位に対してである。

そして、最後には、この地で、亡くなられた、敵軍をはじめ、現地の人たちの、犠牲者のために、深く黙祷をした。

実は、最初の慰霊の日の、夜に、私の部屋に、溢れるばかりの、現地の人たち、つまり、現地の霊位が、集ったのである。

その霊位は、何も、感情なく、ただ、溢れて、集っていた。

それで、私は、現地の犠牲者のためにも、祈ることを、感じたのである。

あまり書きたくないが、現地の人たちの、霊位は、それぞれの、部族の、葬送の儀により、
お送りされたかったのであろうと、感じた。

つまり、その後、キリスト教が入り、彼ら特有の、部族の儀式を、悪魔的なものとして、廃したはずである。
皆、今は、一応、キリスト教徒、カトリックである。

地場の儀式を廃することによって、キリスト教は、その教線を広げる。
ところが、原住民は、先祖からの、儀式を求めるのである。

それゆえ、私は、黙祷することによって、彼らの霊位に対処した。

そして、その土地の、守り主である、祖霊に対し奉り、対処したのである。

ある段階までは、この世の人の行為が必要であるが、それ以後は、霊的存在が、介入して、行為を続行するのである。
私は、単なる、その仲介役である。

そして、それは、思い、念い、の力である。

それを、祈り、という。

その後、地元の霊位は、現れなかった。
そして、日本兵の皆様も、現れないのである。

拙い私の祈りでも、少しのお役に立つならばと、思う。
だが、最初の、御幣は、流れることなく、沈んだ。
だから、毎日続けて、慰霊の行為を、行うことにしたのである。

沈む御幣は、マニラ以来である。

確かに、その地で亡くなった兵士の皆さんの、壮絶な死に様であれば、当然であると、思うのだ。

これから、少し、ラバウル戦を生き延びた方の、手記を見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。