過ぎれば、あっと言う間。
そして、その度に、旅日記を記録として、書き続けてきた。
今回は、パプアニューギニアである。
まさか・・・行くとは・・・
そう思う。
目的は、慰霊と、支援。
私は、こんな人間だったのか・・・
素朴な感情である。
なぜするのか、と、問われても、もう、答えられない。
最初は、明確に、答えていた。
答えられた、はず。
しかし、今は、答えられない、答えられなくなったのである。
解りやすく言う。
成仏したのか・・・
そんなことは、分からない。
そして、支援も、役に立ったのか・・・
それも、分からない。
ただ、続けることは、確かである。
物事には、動機がある。
そして、動機の深さというものがある。
だが、この活動は、動機はあったが、続けてゆくための、哲学も思想も無い。
言うならば、心の赴くままに、である。
そんな得にもならないことを、何故・・・
分からない・・・
パプアニューギニアに出掛けて、更に、それが、解らなくなった。
そして、解ったことは、とんでもないことを、しているという事実だ。
首都の、ポートモレスビーは、とても、危険であるとの、外務省の情報である。
以前は、渡航の是非を検討して欲しい。
それから、一つ下がって、注意勧告である。
強奪、スリ、更には、ピストルを突きつけられての、物取り・・・
確かに、安全のために、金をかけていることは、最初に泊まった、ホテルで、解った。
セキリティ会社が、完全にガードしていた。
部屋は、監獄のように、窓も無い。
部屋に入る前に、廊下の扉も、鍵を使う。
そして、鉄格子で、全体が覆われている。
最も、危険地域の、街中だった。
そして、私は、その最も危険な、スーパーや地元の人たちのフード店の、並ぶ場所で、衣服支援を行った。
その前日、丁度、同じホテルに泊まる、日本人の男性から、声を掛けられた。
昔、ニューギニアで、仕事をしていて、今は、フィジーに住んでいると言った。
その方に、支援をしたいと言うと、赤十字に渡すことですと、言われた。
そのスーパーの前では・・・
駄目です。一番、危ない。強奪されますよ・・・
だが、私は、そこで、行った。
日の丸を掲げて・・・
同行のコータは、目立つのは、良くないと、言ったが、私は、逆に、日の丸で、目立つように、出掛けた。
そして、皆さんから、熱烈歓迎を受けた。
これは、あまり書きたくないことだが、中国人と、間違われないようにと、アドバイスを受けていた。
全国的に、中国人の、排斥運動が、展開されているとのこと。
それで、日の丸の出番である。
日本と、日本人に対して、パプアニューギニアの人々は、とても、親日感に溢れていた。
道を歩いているだけで、皆さんから、声を掛けられる。
ハロー
モーニング
時には、日本語で、こんにちは、である。
ラバウル、ココポから、戻り、二日を過ごしたホテルの、近くには、セトルメントと呼ばれる、スラムがあった。
一番、危険な、地域である。
部族間抗争も、激しい。
しかし、私たちは、そこに出掛けた。
二つの部族の人たちが、暮らしていた。
そして、矢張り、最初に、挨拶して、握手したことと、写真を撮ったことを、奥にいた部族の、オサが、気分を悪くしたようで、酒によっていたせいもあり、難癖をつけ始めた。
だが、そこから、無事に出た。
多くの写真を撮り、多くの人たちと、握手をした。
私は、言った。
パプアニューギニア、エンド、ジャパン、ベストフレンド
彼らは、とても、喜んだ。
そして、次に来る時は、沢山の、プレゼントを持ってきます。
子供たちの、衣服も、ね・・・
サンキューサンキューと、繰り返し言われた。
私は、アホのせいか、むやみに、恐れない。
最悪の場合は、死ぬだけである。
そんなことは、怖くもなんとも無い。
死ぬのが、怖くて、この活動は、出来ない。
ただし、流しのタクシーには、乗らなかった。
怖いから・・・
その怖さは、拉致などされて、日本国に、迷惑を掛ける、怖さである。
国に、面倒を掛けるほどの、活動ではない。
殺されたら、死体になるだけで、それは、保険で、すべて、片がつく。
この、旅日記は、ランダムに書き付けてゆく。