2011年05月11日

天皇の島ペリリュー島へ11

ペリリュー島の日本軍の攻撃は見事なまでに無駄がなく、どの兵器を使うときも、決してむやみに撃ってくることはない。日本軍は、われわれに最大限の損害を与えられるタイミングを狙いすまして撃ち、チャンスが去るとただちに砲撃を停止する。このためわがほうの観測兵や航空機は、尾根筋に点在する巧みに偽装された日本軍の陣地を発見するのに苦労した。
スレッジ

日本軍は大砲や迫撃砲を撃ち終わると、洞窟陣地に入り口に取り付けた鋼鉄の防護扉を閉じ、われわれの大砲や艦砲、八一ミリ迫撃砲などが岩山に砲弾を撃ち込んでいるあいだ、じっと身をひそめて待つ。・・・ただ心に焼き付いているのは、左翼方向から浴びせられる熾烈な砲火と、日本軍がその気になれば、われわれはいつでも木っ端みじんに吹き飛ばされてしまうという、いたたまれない思いだけだ。
スレッジ

彼は後半で、
軍事的優秀さを求めるひたむきさにかけては、日本軍もアメリカ海兵隊に劣らなかった。
と、書く。

印象的なのは、
彼らが天皇に献身的であると同様に、われわれもアメリカという祖国に献身的でなければならない。これこそが、第二次世界大戦における海兵隊精神の真髄だったと思う。それが正しかったのは、歴史が証明している。
と、書くのだ。

しかし、そこに至るまでに、彼は、様々な体験をする。

あっという間の出来事だったにもかかわらず、握ったカービン銃に視線を落として我に返る瞬間があった。たった今、自分は至近距離から一人の男を殺した。私の撃った弾丸が男に当ったとき、その顔に浮かんだ苦痛の表情がありありと見てとれたことがショックだった。ふいに、戦争がきわめて個人的な問題になった。男の表情が私を恥じ入らせ、戦争と、それに伴うあらゆる悲惨さに対する嫌悪感でいっぱいになった。
スレッジ

歩兵にとっての戦争はむごたらしい死と恐怖、緊張、疲労、不潔さの連続だ。そんな野蛮な状況で生き延びるために戦っていれば、良識ある人間も信じられないほどの残忍な行動がとれるようになる。われわれの敵に対する行動規範は、後方の師団司令部で良しとされるものと雲泥の差があった。
スレッジ

戦場における、敵味方の、様々な、非人道的行為が、書かれている。
だが、
人肉粉砕機に放り込まれた者にとって戦争は恐怖の地獄であり、死傷者が増え、戦いが延々と長引くにつれて、二度とここから逃れられないという思いが募る。
スレッジ
のである。

そして、
歩兵は消耗同然なのだ・・・
と、嘆き、
自分の命など何の価値もないと思い知るのは、孤独の極みというべきだった。惨めなことこのうえもない体験だった。
と、書き綴る。

まだまだ、スレッジの、戦記は、終わらない。
が、どこかで、終わらなければならない。

戦場など、知らない者にとって、戦記とは、その理解度によって、様々に、受け取られる。
だが、スレッジの戦記は、具体的で、更に、戦場の様々な、状況を目の前に見せてくれる。

彼は、沖縄戦も体験して、最後に書く。
戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。そんな苦難を少しでも埋め合わせてくれるものがあったとすれば、戦友たちの信じがたい勇敢さとお互いに対する献身的な姿勢、それだけだ。海兵隊の訓練は私たちに、効果的に敵を殺し自分は生き延びよと教えた。だが同時に、互いに忠誠を尽すこと、友愛をはぐくむことも教えてくれた。そんな団結心がわれわれの支えだったのだ。
やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまでは、自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となる。―――私の戦友のように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」。特権は責任を伴う、ということだ。
スレッジ

日本には、賢い馬鹿で、溢れている。

21歳のスレッジが、戦場で、学んだものを、生かさない手は無い。

世界は、未だに、戦争から、抜けていないのである。
つまり、大量殺人である。

日本の国を、守るために、若者が、その命を、捧げるということの無いことを、極みに祈る。

だが、どんなに、ニヒルに構えたところで、万が一、戦争に突入したならば、ニヒルは、叩き潰され、そして、肉体を切り刻まれるような、死を体験することもある。

戦争体験者は、もう、80歳近くの人たちだ。
本当に、その体験者が、いなくなった後、この戦争を語り継ぐ者は、誰か・・・

追悼とは、追体験することであり、慰霊とは、その戦争で命を失った方々の、思い、念い、を、霊位として、奉ることである。

ユージン・B・スレッジは、19歳で、海兵隊に入隊し、歩兵として、従軍した。
戦後は、アラノバ州モンテヴァロ大学で生物学教授、専門は、鳥類学である。
2001年没。

心から冥福を祈る。

私は、コロール島の、パラオ唯一の、ダウンタウンで、二泊して、帰国する。
朝、四時の便であるから、ホテルを夜中の二時に出た。
私は、一時に出る予定を立てたが、ホテルのドライバーが、大丈夫、二時で、オッケーと言うので、従った。

来るときも、30分ほど、早く着いたが、帰国便も、早かった。

そして、行きも帰りも、体を横にして、寝ることが、出来た。

私は、英霊に守られて、これからも、追悼慰霊の行為を、続ける。
再度、パラオに出掛けることにもなるだろう。



posted by 天山 at 00:00| 旅日記 天皇の島ペリリュー島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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