2011年04月05日

難民5

遅い昼の食事は、三時を過ぎていた。
つまり、おおよそ、五時間活動していた、訳である。

広倉さんの、知り合いの、中華系の人の、中華料理店である。

ここの、中華系の人は、20年前は、屋台で、やっていたという。
それが、今では、店を構えるほどになった。

中華系の人たちは、勤勉で、我慢強い。

私は、東南アジアを回り、中華系の人たちを、嫌った。
今も、嫌う。
しかし、彼らは、実に、勤勉で、我慢強く、頭が良い。

それが、時に、我々だけが・・・
中華系の人たちだけが、良ければという、感覚になる。

だが、よく考えてみれば、それも、理解する。
辛抱して、他国で、商売を成功させるには、それなりの、努力が必要である。

私が、中国系の人たちを、ゴキブリのような・・・と、表現することを、少し反省する。

良い人たちも、大勢いるのである。

最初は、少し話しをしたが、皆、疲れて、たた、食べることに、集中した。

私も、コータも、黙々と食べた。

広倉さん、中野さんの、お孫さんは、私が、料理に手をつけるまで、一切、箸をつけないので、私は、積極的に、箸をつけなければならなかった。

たっぷりと、食べた。
本当に、満腹である。

そして、これで、最後である。

本当は、一日置いての、活動が、理想的である。
しかし、メーソートの場合は、一日で、すべてをこなす。

迷惑をかけたくないという、想いも、ある。

次の、計画を話して、それで、十分に、気持ちが通じる。

中野さんの、お孫さんは、大学を卒業して、軍隊に入る。
ただし、大学卒業をすると、半年の任期であるという。

婚約している女性もいて、結婚の際は、是非、私に教えて欲しいと、言った。
もし、お祝いに、参加できれば、参加したい。

彼は、翌日、私たちを、空港まで、送ってくれた。
勿論、広倉さんも、である。

広倉さんは、私達が、搭乗するまで、付き合ってくれた。
そういう人なのである。

だから、あまり、迷惑をかけないように、と、私は、活動を一日にした。

メーソートという、ミャンマー国境の町。
向こうには、ミャンマーの、ミャワディーという町が見える。
出来れば、その町にも、入国して、ミャンマーの人たちにも、支援をしたいと、思う。

だが、国境が封鎖されている。
どうしょうもない。

前回も、コータが、国境を越えようと思ったが、駄目だった。

いつ、自由に、行き来が、出来るのか・・・

早く、その日の来るのを、待つ。

私は、マンダレーにて、戦争犠牲者の追悼慰霊を、したいのである。

ビルマ戦線で、亡くなった方々の、慰霊である。

申し訳ないが、現政権が、崩壊して、ミャンマーに入国できるのを、期待する。
ただし、もし、それが為されなければ、私は、タチレクという、国境の町から、マンダレーに向かうことを、考えている。

タイ、国境の町、メーサイから、入る。
メーサイには、三度出掛けた。

ビルマは、日本に近い。
近いというのは、感覚的に、近いという意味である。
ビルマの人々は、日本人を歓迎する。

同じ、仏教徒である。
まあ、同じといっても、日本の仏教と似ても似つかわしくない、仏教であるが、ビルマの人は、同じと、考えている。

マンダレーは、ビルマ人の、仏教の聖地でもある。

そこには、日本兵士の、慰霊碑が、多くある。
それも、次第に、消滅の運命なのである。
兵士の遺族が、亡くなり、慰霊碑の、管理も、行き届かない。
現地の人たちが、それを管理するという。

敗戦から、67年を経る。

あの、悲劇が、忘れられることが、悲しい。

私の、祖父母の世代、今の若い人の、曾祖父母の時代の、出来事である。

しかし、それを、思い起こすことで、戦争を回避する、心が、生まれる。

二度と、あのような、戦争をしないためにも、忘れてはならないのである。

私は、そのために、この活動を続けている。

あはれなる
戦のことの
悲しみを
今こそありて
伝え統べるか




posted by 天山 at 00:00| 旅日記 難民 メーソート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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