2011年04月03日

難民2

広倉さんが、食堂で、働いている人たちも、難民ですと、言い、食堂に案内してくれた。

丁度、昼の食事時であり、入院患者たちが、食器を、持って並んでいた。
そこで、衣服を出したものだから、働いている人たちだけではなく、入院患者さんたちにも、差し上げることになった。

バッグ一つでは、足りないので、送っていた、ダンボール箱を持ってきた。
一つのテーブルの上に、衣服を置くと、さあ大変である。

皆さん、自分に合うものを、取ってくださいと、声を掛けた。

人たちが、殺到する。

更に、ダンボール箱を追加する。

中には、子供の物も、必要とする人たちがいた。
子供用も、出すことにした。

テーブルに置いた物は、大半が無くなった。

私は、汗だくになる。

次ぎは、子供たちの部屋にということで、向かうと、すでに、子供たちが、部屋にいて、座って待っていた。

こんなに・・・

幼稚園児ほどの、子供たちが、沢山いた。
一つ一つを、手にして、一人一人の子に合うサイズを、渡す。

子供たちは、騒がず、静かに、受け取る。
とても、良い雰囲気である。

着ているものは、汚れていた。
だから、なお更、私は、渡すことを、喜んだ。
良かったねーーー

声を掛けて、渡す。
体に合わせて、渡す。

子供は、未来だ。
未来に、衣服を渡す。

衣服支援の、醍醐味である。
私は、すでに、報いを受けていた。
静かに、はにかむ子供たち。喜ぶ子供たち。

良かったねーーー

そして、一通り済んで、空になったバッグをたたむ。
部屋から出て、写真を撮ると、その後ろから、子供たちが・・・

まだ、渡していない、子供たちがいたのだ。

車から、子供用を再度、持ってきてもらい、外で、皆に手渡す。
赤ん坊もいる。

曇り空だが、次第に、暑くなる。
私も、汗だくである。

写真を撮る。
皆、写真に収まる。

これで、終わりですかと、広倉さんに、尋ねると、終わりですと、言うので、車に戻る。

事務所の前には、若者たちが、たむろしていた。
彼らに渡すものは、無いのである。

残る物は、大半が子供用である。
孤児たちの家のためである。

日本語で、さようなら・・・
さようならと、声を掛けて、メータオクリニックを後にする。

それから、追悼慰霊のために、ミャワディ川に向かう。

私は、何気なく、空模様を見た。
薄く、日差しがある。
晴れてきた。

そして、自由戦士の碑の前に着いた時は、晴れ上がったのである。
カレン族の人たちと、戦いを共にした、三名の日本人の若者の碑である。

日の丸を掲げて、祝詞を献上する。
更に、今回は、戦いの跡である、川沿いまで出て、そこで、清め祓いを行う。

いつも、偶然に晴れるのである。
太陽に対して、拝し、清めの言霊、音霊を、唱える。

ミャンマー側には、歩いて渡れるほど、近い。

広倉さんの、息子さんは、ミャンマー側にいる、母親の元に、時々、ご飯を食べるために、川を渡って、出掛けるそうである。
年老いた、おばあさんの、世話をするために、ミャンマー側のミャワディに滞在しているそうだった。

タイ側では、採砂作業をしていた。
国境の橋の辺りで、タイ側が、河川の工事をしていて、それが、ミャンマーの不満を買っているとのこと。
つまり、タイ側が、国境を広げていると、解釈されているのだ。

この、国境の町では、以前も、書いたが、麻薬の、取引場所であった。
前の首相のタクシンの時代に、多くの人が、麻薬密売容疑で、殺された。
その数は、八千人とも言われる。
そして、全く、関係ない人々も、多く、殺されたのである。

ところが、その大元が、政府だったというから、驚き、呆れた。
そして、地元警察も、介入していたのである。
警察官は、給与の他に、麻薬関係取引での、手数料も、得ていたという。

そして、それを、政府ではなく、国王直轄の、枢密院に、訴えたのが、在住の日本人数名である。

それで、公になったのである。
その経緯については、省略する。





posted by 天山 at 00:00| 旅日記 難民 メーソート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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