2011年03月25日

神仏は妄想である 339

マタイは、
だから彼がイエスの言葉をひいて、「取税人や売春婦こそ神の国にはいる」と言う時には、明瞭な嘘がある。彼自身は本気になってそんなことを思ってはいない。それはイエスの言った権威ある言葉として伝えられているから、無理をして継承しているだけであって、それを口にすることによって、自分は「取税人や売春婦」さえも許してやっているのだ、と愛の実践の芸当を歯を食いしばって行っているのである。
田川建三

私は、神学者としての、田川氏を、実に尊敬する者である。
自分の問題として、聖書、その内容を捉え、更に、それを、歴史的及び、聖書学から、検証するのである。

そして、実践の観念論は、終わりに近づく。

「罪人」にとっては、自分たちが「罪人」なんぞにされることのない社会が来ることが必要なので、「罪人」とされた上で許していただき、以後はおなさけでもって許していただいた「罪人」として一生頭を低くして生きていきたいわけではない。「取税人や売春婦」自身は、当時のユダヤ教社会にあっては最も馬鹿にされていたそういう生業を好んでやっていたわけではないので、そのように恥をさらしてでも僅かの金をかせがなくてはならない位置に置かれてしまった、ということなのだ。だから彼らにとっては、ほかの仕方でもう少し楽に生きていける世の中が必要なのである。「貧乏人」にとっては、憐れんでいただくのがいいのではなく、自分たちが貧しくなくなる社会、自分たちを生意気にも憐れんだりしている奴らが自分たちよりも金持ちでなくなる社会が来ることが必要なのだ。「憐れむ」奴らは、その実践を徹底してなせばなすほど、優越意識が高まって、嬉しくなるものだ。「憐れまれる」側にとってはたまったものではない。俺たちは憐れんでなんぞいただかなくてもすむ時を待つ。いや、そういう時をかちとってやる。
田川

マタイの非常に徹底した愛の実践の倫理は、まさに彼自身の現実に立ち向かうことではなく、彼自身の中の「安定」した側に立ってなされる特別のつけ足しの実践でしかない。
田川

であるから、それを徹底させれば、させるほど、宙に浮いたものになる。

そこで、田川氏は、マタイの信仰の論理から、見ていく限り、マタイが批判していた、パウロ主義の側から、もう一度、ゆり戻したが来ると言う。

ここに、キリスト教の、問題がある。
相矛盾した、教えを、キリスト教は、その都度、こちらを、では、こちらを、と、提供して、成り立ったのである。

そこで、パウロ主義は、

マタイのように凄絶な義と愛の実践を説く限り、そして、その人生の特別あつらえの「実践」にはげむのではないと天の国に入れない、と言うとすると、よほど特別にそういう暇と余裕のある奴でなければ天の国に入ることができなくなってしまう。

だが、神の与える救いとは、そんな空しいものなのだろうか、とキリスト教徒なら問うにちがいない。それが一つの強力なイデオロギーになって一つの社会集団を覆えば、そこには息のつまるような倫理主義が支配する。

そこでは、「憐れみ」の対象である「罪人」はまさに「憐れみ」の対象として社会の下層に据え置かれる、という状態しか生まれない。そうではなく、まさにすべての人間が「罪人」であって、その「罪人」が救われる、というのがキリスト教の「福音」ではないのか。「救い」は人間の行為を業績として採点して与えられるのではなく、神の方からすべての者に無償で与えられたことではないのか。我々はそれを信じてさえすればいいのではないか。
田川建三
改行は、私。

パウロ主義は、信仰の視点から、倫理主義が常に陥る、特別あつらえの、善人意識を、十分に批判する。

だが、実践の水準から見ると、実践しないことに、居直る、論理である。

その、パウロ主義に対して、マタイは、常に、実践の、主張をする。

こうして、ことは堂々めぐりをする。
田川

キリスト教は、長い歴史の中にあって、マタイと、パウロを、正典の、二大中心に据えて、実にうまく、やってきた。

みずからおのれを批判する倫理を含んでいるから、ぐるぐるまわってうまくいく。
田川

そして、結果は、マタイにも、パウロにも、徹底出来ず、円環してゆくのである。

田川氏は、
実践を実践の観念論からひきずりおろす以外にない。
と、結論付けた。

マタイの矛盾は、愛を強調しつつ、他方で、異邦人を軽蔑し、取税人を罪人の代表として、見下し、当時の、ユダヤ教社会の律法が、どういう仕方で、罪人なるものを、規定していたかを、考慮することなく、罪人を単なる、悪人と、決め付けた。

イエスは、全く逆である。

当時の、ユダヤ教の、どうしようもない、差別意識を、徹底して、批判し、攻撃し、つまりは、否定したのである。

教会は、イエスとは、遠い。
ただ、看板だけは、愛を掲げた。
そして、それを、すべてで覆った。

だが、歴史を眺めれば、その愛の実践も、単なる、飾りである。
大航海時代は、見るも無惨に、大量虐殺を行い、キリスト教を、異国に、強制した。
そして、その後、その反省か、キリスト教全体は、愛だ、愛の行為だと、ミッションを全面的に、押し出した。

だが、その歴史も、長くは無い。
倫理的、人道的行為が、世界に広がるが、果たして、キリスト教徒は、イスラム教徒に、殺される時、黙って、殺されるか。

イスラム教徒の全滅を誓い、核兵器でも、何でも、使用して、皆殺しにするのは、見えている。

それは、今まで見てきた、通り。
旧約聖書の神の在り様、を、見れば、一目瞭然である。
嫉妬と、復讐、怒りの神である。

その名は、ヤハゥエ。
勿論、魔神である。

エジプトで、誕生した、霊体である。
それが、ユダヤ民族、民族神として、絶えず、ユダヤ民族に関わってきた。

この場合の、霊体とは霊団である。
ユダヤ人が、幸せになるためには、この霊体、霊団と、絶縁することである。

気まぐれで、人殺しを好むのであるから、ユダヤ民族は、救われない。
キリスト教の、霊体、霊団も、そこから、派生している。

ヤハゥエの、最終目的は、破滅、破壊である。

ちなみに、イスラムの、霊団も、これからの、派生である。
近親憎悪・・・

それらの、世界を、次元が高いレベルと、鑑定する、霊的能力者は、おおよそ、そこからの、縁を頂き、そのような、能力を得ている。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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