2011年03月07日

スラバヤ 7

一日活動して、一日、休むことにしていた。
気温差が、激しいからである。
無理をすると、熱中症になる。

と、思いつつ、ホテル近くの市場に出掛けた。

歩いて五分ほどの所に、大きな市場がある。

だが、その通りを歩いて行くと、物乞い、母子の、物乞いが多いのである。

子供たちも、手を出す。
更に、食べ物が欲しいと、身振りである。

私は、すぐに、ホテルに引き返して、バッグを持って来た。
まず、衣服の支援である。

衣服を取り出すと、ワァーという、歓声が上がる。
すると、次々と、人が出て来た。

子供服を、取り出すと、私も、子供がいる・・・
私も・・・

まず、目の前にいる、子供から、手渡す。
サイズを合わせて、上げるのである。

そして、幼児の物。
すると、妊娠中の女性も、やってくる。

そうして、おおよそ、皆さんに、差し上げて、ホテルに戻り、再度、市場に向かうことにした。

通りでは、先ほどの人たちが、知り合いになっている。

それから、毎日のように、私は、子供たちに、食べ物を上げた。
勿論、その通りで、売られている、屋台売りの、食べ物である。

とても、安い。
しかし、とても、感謝される。

老人の福祉が無い、インドネシアは、老人の物乞いも、多い。

それを見るのは、とても、辛い。
女性の老人には、衣服を差し上げることが、出来たが、男物は、ほとんど持参しなかったせいで、差し上げられない。

市場は、とても、活気がある。
一階は、食べ物が中心で、二階が、電気製品売り場である。

二階には、用がなかった。
一階に降りて、食べ物、特に、果物を見て歩く。

スイカを買った。
100円程度である。
そして、みかん、である。
量り売りで、適当に選ぶ。日本の、冬蜜柑より、薄い味で、あまり、甘くない。

スイカは、ホテルで、包丁を借りて、食べた。
一つであるから、三日間ほど、続けて食べた。

市場の中には、食堂が無かったのが、残念である。
どこの国でも、市場の食堂は、実に、安い。

毎日必要なものは、水である。
その水の、値段が、それぞれの店で、違う。

私たちは、色々な場所で、水を買い、どこが、一番安いかと、検討した。
最も安い店と、高い店の値段の違いが、7円であることが、分かった。
しかし、安い店は、15分ほど、歩くのである。

四本買うと、28円の差である。
それが、五日間だと、140円。
それだけあると、10円の、屋台売りの、揚げ物が、14個買える。
そこで、浮かせた、お金を使い、子供たちに、揚げ物を、買うという・・・

とても、セコイ・・・
だが、それでこそ、私らしいのである。

更に、屋台売りの、焼き飯、ナシゴレンなどは、一つ80円。
それも、買って、子供たちに、配った。

子供たちは、決して、一人では、食べない。
親、兄弟と、一緒に食べる。

分け与えるのである。

私が、それを買っていると、人が、どんどんと、やってくる。
それは、キリが無い行為になる。
どこかで、止める。

彼らは、ほんの少しで、十分のようである。
少しの、食糧で、十分な、体になってしまったのである。
だから、子供たちの、体は、小さい。

見た目より、年齢が高い。

ただ、それを見ていると、貧しさの、種類というのか、意味が違うように思う。
例えば、フィリピンの島々の、貧しい人たちと、雰囲気が違う。
少し、暗いのである。

フィリピンの島々の人たちは、貧しくても、解放的で、明るい。

こちらは、どちらかと言うと、貧しさに、負け気味である。
いつか、何かで、逆転するかも・・・というのが、フィリピンの強さと、言っても、いい。

諦めたムードが、漂う。

そこから、抜けなられない、定めを、諦観するようである。
それは、また、インドネシアのイスラム教が、影響しているようである。

貧しくても、イスラムである。
ただ、あまりに、貧しいと、モスクにも、行かないようである。

貧しくても、女性は、イスラムの被り物をしている。
だが、それ以上に、貧しいと、被り物もしない。

時間ごとに、流れる、イスラム教の祈りが、至る所の、モスクから聞えるが、私には、それが、何やら、悲しいメロディーに聞えるのである。

金曜の夜は、深夜12時頃まで、祈りの声が続いた。
一体、人は、何故祈るのか。
それは、ミャンマーの朝の寺院でも、感じたこと。

信仰というより、逃避に感じるのである。

それが、また、救いということかもしれない。

逃避できる場所があるという・・・

貧しさを、何かに転化する。

バリ島でも、至る所の村々で、毎日のように、祭りがある。
そして、仕事より、祭りが、優先する。

バリヒンドゥーであるが、そこにも、何か、信仰より、逃避を感じるのである。

祭りに参加しない者は、村八分にされる。
貧しい人たちにとっては、それは、恐ろしいことである。

村八分にされると、助け合うことが、出来なくなる。

信仰と、一口に言っても、日本人の信仰心と、それぞれの国の、信仰心は、違う。
ここに、その相違による、問題意識と、テーマが、与えられる。




posted by 天山 at 00:00| 貧しさに負けるスラバヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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