2011年01月09日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 9

シライの町の西方を、中央山岳の三山に源を発して、水量豊かなシライ川の流れがある。この川に沿った上流十数キロの山岳台地において、残敵(米比軍)掃討作戦が展開された。
その日、早朝から行われた戦闘は、熾烈を極めた。地の利を得て、死守する残敵との交戦は、一進一退と、ようやく掃討作戦の終結を見たのは、翌日の正午を過ぎていた。
池 平八

その付近を、ギンバラオンという。
私たちは、その手前まで、行った。
広い、さとうきび畑が広がる中で、日の丸を掲げて、慰霊を行った。

ある夜、戦友の小田上等兵が、立哨時間に敵のスパイを一人発見し、俘虜とした。俘虜は数日の取調べの後、街の郊外の共同墓地において、斬殺の刑に処せられることになった。

俘虜の上半身は、数ヶ所に試し切りの刀痕が血をにじませている。そのとき一人の海軍将校がすくっと、スパイの後ろに立った。果たしてこの将校の手によって、首を切り落とすことができるか否や。全員が息を殺して彼の一挙手一投足を真剣なまなざしで見守っている。しばしの間を置き、腰の軍刀の柄に手がかかった。その後は目にも止まらぬ早技だった。右手に持った刀は、右手斜め前方に切っ先を下げている。刀身には一滴の血痕さえ見当たらない。果たして切ったのか、まだか。
全員が息をのむ静寂の一瞬、そのときスパイの首が前方に静かに下がったのであった。
池 平八

スパイは、フィリピン人である。
それを、市民が見ていたという。
悲鳴と、怒声が上がり、恨みのこもった目で見た。という。

66年前のことである。

上空に目を移すと、激しい空中戦が、まるで天空を乱舞するがごとくに展開されているのだ。敵の大軍、グラマンや双胴のロッキードに向かって、その数わずかに十機足らずの友軍機である。
この壮烈なる戦いぶりを、他の誰が、わが地上軍の将校の誰が最後まで見届けたというのであろうか。彼ら空軍の若き将校は、南の国シライの上空において日本空軍の花として、華々しくも哀れで悲しい終末を遂げたのであった。
ああ、わが空軍の軍神よ、その霊魂よ。安らかに眠りたまえ。
池 平八

私は、帰国して、三山、シライ山、マンダラガン山、クワラオン山、特に、マンダラガン山の下にて、追悼慰霊を執り行いたいと、思った。

ネグロスに散在していた、百二師団の各部隊の精鋭が、この地に集結し、やがて、有名な、ネグロスの一大決戦の行われた場所である。

このネグロスの地に駐屯して、すでに一年有余の歳月が流れた。最近における日米の現地の状況から推察すると、もはやわが軍に有利な材料は何一つ残されていない。この半年足らずの間に、わが空・海の両軍は壊滅状態となった。早急に再建すべきだが、その望みは絶たれたのも同然だった。この地上軍が、たとえ何万、いや何十万の兵力であったとしても、敵、米軍にすればとるに足りない存在である。
池 平八

そして、池氏は、日本の敗戦を感じたのである。
しかし、物語は、これからである。

レイテ戦で、負傷した、多くの兵士たちが、九死に一生を得て、ネグロス島、シライの本部に帰ったという。
更に、ネグロス島での、負傷者も。
だが、負傷者を収容する、野戦病院が無いのである。

ネグロス島に、上陸した、米軍は、その後、益々と、増強されてゆく。

ギンバラオンを経て、台地に赴き、激戦が、繰り広げられる。

やがて、沈黙が破られることになった。ある日の夜、敵陣から轟音を発した砲撃が、わが陣地の全域に対して開かれたのだ。光の玉が、薄明かりの空間を飛ぶ。一瞬、友軍の各陣営に炸裂して、光の破片が夜空に飛散する。真夏の夜の花火のごとくきらめく。そのさまは、生易しいものではない。
轟音・・・爆発音の交錯のなかで、わが友軍兵士が何人も、いや何百となく、空中高く舞い散っていく。一瞬にして、阿鼻叫喚の修羅の地獄絵が、現前に展開された。硝煙と爆音、噴煙の中に、無数の光の断片が空中高く飛散し落下する。
多くの戦友の命が、一瞬のうちに、引き裂かれ、飛散する。・・・
池 平八

マンダラガン山を、日本軍は、筑波山と、呼んだ。

ここに至り、日本軍の大軍は、レイテ、セブ、ネグロスの戦いで、多数の重火器を破壊され、弾薬も、消耗していたのである。
更に、大砲、銃器、弾薬を持たない。

つまり、人間だけの集団だったのである。

わが軍は、この後の数度にわたる戦闘をも含め、第百二師団並びにネグロスにおける海空軍を合わせた一万数千人のうち四分の一の戦死者を出した。その後の長期間における山河地の飢餓戦線では、少量の塩をなめ、水をすすり、草を食し、最後は体に巣くう多数の小さな吸血鬼、シラミを食った。その後飢えて渇いて餓死したのである。その数は、ネグロス戦死者の数倍にも当るだろう。
私の推定では、おそらく六、七千人以上の戦友たちが飢えて死んだのである。
このネグロスの戦闘が、レイテ、マニラの戦闘に比べて、規模のうえでは遠く及ばないとしても、フィリピン第三の激戦地と呼ばれるにいたったのはあまりにも悲惨な故だ。
池 平八

では、なぜ、このような無謀な戦いに、臨まなければならなかったのであろうか。それは、ネグロスの戦場だけにとどまらない。日本軍は、かつて(明治以降)の戦争において、これと同様、人命を無視し、悲惨な結末に終わる戦いを強いてきたのである。しかも戦いの場で、多くの将兵は、皇国のために死ぬことを無上の名誉とし、本望としたのである。・・・・

そのように私たちは、当時の為政者によって教育され、洗脳されてきた。だから、この思想をなんの抵抗もなしに受け入れたのかもしれない。こうして多くの兵力を消耗し、壊滅的な打撃を受け、一歩また一歩と戦線の縮小を余儀なくされていったのである。
池 平八

死の直前に、「お母さん」と、言えずに、死ぬ者。
長い戦いの中で、「天皇陛下万歳」などとの声を、一度も、耳にした事が無いと、池氏は、書いている。

この、無益で、野蛮な、戦い。
戦争というもの。

戦記は、それを、痛烈に批判する。



posted by 天山 at 00:00| 明るい悲惨、ビサヤ諸島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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