2011年01月07日

神仏は妄想である 317

神なきいま、神の死の神学者たちは何をするのか。彼らにとって特徴的なことは、彼らがイエスに集中しようとすることである。彼らは、神は殺すが、イエスは殺さない。むしろ神なきあとは、イエスにすがる。神の死の神学は、神観を破壊してイエス像を再構築するといってもよいのである。
神の死とラディカリズム 小原 信

だが、再構築するという、イエス像は、何から、得るのかと、言えば、聖書からである。
それ以外に、方法は無い。
しかし、その聖書が、改竄されたと、現代では、常識になっている。

これは、とても、大変な試みである。

とくに、ラディカルなのは、アルタイザーのイエス観である。アルタイザーによれば、イエスは神の死によって生まれた。聖書の言う神、キリスト教の言う神が人間になったこと、神が人間「肉」になること、つまり、「受肉」が、そのまま神の死をあらわしていると言うのである。この神の自己否定もしくは自己滅却が、神の愛だと言う。かくして神は、偉大な人間性として、文字通り宇宙大の現実のなかに、イエスとして現在することになる。
小原 信

これでは、詭弁である。

神が人間になった。
キリスト教の、第一義の、教義である。
結局、神が死んでも、イエスが、その役割をするということで、内容は、変わらない。

今までも、イエスは、神の子であった。

さらに、
イエスに集中することは、新約聖書のおけるイエス像を基礎とすることであり、新約聖書のなかのイエスがどのような人物であったかは、福音書の記述からわかってくる、とハミルトンは考えている。むしろ、イエスに従い、イエスをまねようとする者には、イエスが、人のために苦しみをなめ、神がいないのなら、そしてわれわれにはイエスがわかるのなら、抽象的で観念的で形而上学的な神というものを考えないでより具体的なもの、より現実的なものととりくんで生きようとするわけである。
小原 信

それならば、今までとは、たいして、代わり映えしないのである。

神の死の、神学者も、戯言を言う。

人間、イエスとして、捉えることが、出来ない、という、既存の神学から、まだ、抜け出ていないと、見る。

ただ、神なしに、新約聖書のキリスト論を考えることが、出来ると、考える、学者も存在するというが、キリスト論というところが、実に、蒙昧である。

イエスを、キリストとしたのは、誰か。
原始キリスト教団である。

ただ、新約聖書の現代版を、創作しようとする試みに、似る。

つまり、新しく、イエス・キリストを創作しようとする試みであり、結局、イエスは、メシアとなるのである。

神なしで生きるとは永遠の生命なしに生きることでもある。神の死の運動は、神なしに、永世なしに、しかし絶望なしに生きることを求める。神がいないということは、神が何か他の名前によっても存在しないということである。神を「根底」とか「深さ」とか「創造性」とか「愛」とかいうふうに名づけ直すことも、ここでは拒否される。あるのは、ただ、神なしにイエスに集中しようということだけである。・・・・
天の神も、機械仕掛けの神もいらない。いるのはただ、イエスだけだ、と言うのである。
小原 信

気持ちは、解る。しかし、人間イエスを、見るのではない。
イエス・キリストを、見るのである。

そこで、面白い、展開が、出てくる。
これは、仏教かという、考え方である。

つまり、
神なきいま、イエスに集中するとは、この世にイエスを見出すことだから、神も聖も救いも、すべて、あるとすれば、この世の中に現に在ることになる。キリスト者とは、この世のなかに神「キリスト」を見出す者のことであり、キリスト者は、俗なる世界がそのまま同時に聖なる世界でもありうること、世俗の時間がそのまま同時に聖なる時間でありうること、肉欲的なものがそのまま同時に霊的なものでありうること、つまり二つのものの弁証法的性格を信じる者として定義し直される。
小原 信

どこかで、見た、仏教の、お話である。

煩悩即菩提などという、詭弁である。

今頃、気づいてどうする・・・

弁証法的性格などというが、単なる、言葉の遊びである。

神の死を言う、ラディカルズは、聖域のすべてを、文字通り、宇宙大に相対化させてしまった、と言うが、何のことは無い、当たり前のことである。

結局、神の死を言う、彼らも、神観念から、抜け切れていないのである。

つまり、教会は、いらない、教団はいらない。
司祭と、信徒の区別も無い。

イスラムのようで、いいのである。

これは、長い間の、教会権力に対する、反乱でもあろう。

だから、
神は天にいるのではない。地上にいるのでもない。神は上にも下にもいない。神はどこにもいないのである。・・・この世以外のものは否定され、拒否されねばならない。あるのは、われわれ人間の現実の生であり、われわれがやがて死ぬということである。だが、自己の生、つまりこの世があるということは、どこまでも自己の責任として、また課題として受け取られる。神は死んでこの世がある。イエスは死んでこの世のなかにいる。ゆえに、かつてではなくていまが、あそこではなくてここが、大切であり意味をもってくる。・・・
われわれには、この世界が、この世が、われわれの生きかつよろこびを見出す世界、つまり「神の国」ということになってくる。
小原 信

まあ、ここまでくるのに、どれほどの、時間を費やしたのか。

一体、キリスト教というものは、何をしていたのか。

思い出して欲しい。
イエスは、キリストではないのである。

そして、神は、妄想である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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