2011年01月06日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 6

朝、10時、ホテルに、御願いした、レンタカー、運転手付、三時間、1000ペソが、到着したという、知らせが、フロントから、あった。

ロビーに下りると、ロザンナさんが、すでに来ていて、椅子に座っていた。

私は、ロザンナさんに、行くべき、場所を、話した。
最後は、マンダラガン山の、麓で、慰霊をしたい。そして、その付近の、人たちに、衣服を差し上げる。

ロザンナさんは、了解した。
そして、言う。
日本の、お寺があります。行きますか。
それでは、最後に、そこに、行きます。

国旗と、御幣にする神紙、支援物資を、持参して、出発する。

日本軍が、歩いた道を行く。

ダウンタウンから、出るまで、少し時間を要したが、それを、抜けると、スムーズに走る。

コータが、助手席に乗り、私と、ロザンナさんが、後部座席に乗る。
私は、戦記を手元にして、日本兵が、辿ったであろう、その風景を眺める。

当時と、風景は、変わらない。

サトウキビ畑が、続く。

その道でも、戦いがあった。
戦いつつ、マンダラガン山に、向かう日本軍である。

バコロドから、シライ市に向かう途中に、タリサイという、村がある。
そこでも、戦死者がいる。
その村の、どこかで、慰霊を、行いたいと思った。

運転手が、会社に電話をして、日本軍の、ゆかりの場所を尋ねていた。
ある、古い家があるという。そこを、日本軍が利用したとのこと。

運転手が、タリサイ村に入る。

ところが、金曜日は、マーケットが開かれる日であり、人が溢れていた。

その、溢れている、中に、車を入れた。

道に、敷物を敷いて、色々な物が、売られている。
人が多いので、車は、ゆっくりと、進む。

そうして、ある場所で、停止した。
運転手が、外に出て、確認するようである。

ふっと、横を見ると、フィリピンの英雄、ホセ・リサールの像があるではないか。
彼の、故郷なのである。

私は、ここでいいと、思った。

さて、運転手が、戻る。
そわそわして、落ち着かない。
車の下を見たり、自分のポケットを、探る。

ロザンナさんが、何か言う。
財布をスラれたらしい。

えっ
スリに遭った・・・

ズボンの後ろのポケットに入れていた、財布が、瞬時のうちに、抜かれたのである。

お金は、1000ペソあり、何より、運転免許証が、無くなったことが、ショックである。

免許証を所持していなければ、罰せられるという。

そこで、運転手の交代を、しなければいけなくなった。

私は、運転手に、そこの、古い家で、いいですからと、言い、国旗を持って、外に出た。
人ごみの中、古い立派な家の前で、祈る。

皆、注目していた。

兎に角、早く、清め祓いをして、立ち去ることだ。

朝からの、曇り空が、少し明るくなった。
太陽の光が、差す。

丁度、良い。
太陽を拝して、祝詞を上げる。
そくそくと、終わり、リサール像の前に戻り、写真を撮る。

運転手は、シライ市で、交代すると、言った。
それでは、シライ橋に向かってくださいと、ロザンナさんに、私は言う。

人ごみの中を、車が進む。

運転手は、ごめんなさいと、謝っているそうである。
私は、逆に、ソーリィ、ソーリィと、運転手に言った。

なんだか、申し訳ない気持ちである。

私たちが、スリに遭うというなら、話しは、解る。
現地の人が、スリに遭う。
なんとも、申し訳ない気分である。

シライ市に、向かう道路に出た。
車は、スピードを出して、走る。

さとうきび畑が、続く。
私は、この道を、兵士が、歩いたと思うと、感無量になる。

敗戦から、今年で、66年を経る。
こんな、遠くに来て、死んでいった、若者たち。
何を思う。

故郷を
遠く離れて
戦いに
出でたる兵士
あはれなりけり

連合軍の、大量の物量攻撃に対して、日本兵は、手も足も、出なかった。

死ぬ。
今日、死ぬ。明日は、死ぬ。

毎日が、死ぬことであった。
一万四千人の、日本兵のうち、一万人以上が亡くなったのである。

フィリピン、第三の激戦地である。




posted by 天山 at 00:00| 明るい悲惨、ビサヤ諸島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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