2011年01月04日

神仏は妄想である 314

イエスは、キリストではなく、一人の自由な思想の、持ち主だった。

イエスは、キリストであるという、初期、キリスト教団によって、キリスト教が、作り上げられてきた。

更に、プロテスタントも、カトリックの儀式以外の教義に、少しばかり、手を入れて、聖書主義などと、言って、新しい教会を作る。

イエスは、キリストであれかし、という、願望の元に、キリスト教が、生まれたが、その弊害は、歴史を通じて、大変に、重いものとなった。

異教徒の排斥のみならず、虐殺、民族の虐殺と、血生臭い、行為が、繰り返された。更に、為政者と、組んでの、異端審判である。これも、野蛮極まりないものだった。

さて、1960年代、「神の死」の神学が、生まれた。
アメリカである。

それが、世界に浸透してゆくのである。

アルタイザー/ハミルトン共同の、論文集「神の死の神学」は、「神の死」というはなはだショッキングなキャッチフレーズでもって、宗教的信仰の問題を倫理的実践の問題に変え、超越の神を内在的な人間イエスの問題に転じて論じる。だが、特記すべきは、「神」そのものの死を公けに宣言する、彼らの発想のもつラディカルさである。彼らはともに、「宗教」の教師でありながら、宗教の不要を説く。その意図するところはどこにあるのか。あるいは、かかる発想は、宗教だけに限られるのであろうか。彼らの思想は突然あらわれたのであろうか。
「神の死」とラディカリズム 小原 信

これは、現代にまで、至り、多くのテーマを投げ掛ける。

丁度、その時期から、カトリック信者と、プロテスタント信者が、歩み寄り、共に、祈る場所を、求めた。
体制側の、危惧である。

決して、相容れないものだった、彼らが、信仰の危機を感じて、手を携えなければならなくなったのである。

このままでは、教会が、キリスト教が、潰れる。
会社が、倒産するように、倒産するという、意識である。

絶対的権威の、ローマ法王の、メッセージさえ、デモが、起こるようになる。

昨年、2009年も、フランスの若者たちが、ローマ法王の、コンドーム禁止に対して、デモを繰り広げた。

更に、聖職者たちの、男児、男子に対する、性的暴力に、立ち上がった。
ついに、ローマ法王が、犠牲者となった、少年に、謝罪するという。

それは、たった、一つの出来事である。
教会の、権威の失墜は、目に見えて落ちている。

現代においてGODは死んでいる。東洋のカミも、大学の「神」も、われわれの心のなかの「深み」も、「究極的関心」も、そうして、アメリカ・デモクラシーという「神」も、社会主義国家という「神話」も死んじまったのである。まことに、「神は、われわれの時代に、われわれの歴史に、われわれの実存に死んだのである」(アルタイザー)。現象的にはまさに絶望的にニヒリズムの時代、それが現代なのである。
小原 信

ここで、東洋のカミというもの。それは、何を指すのか。
それらの、カミとは、インド系の、カミを指すものであろう。

日本には、彼が言うところの、神観念は、皆無である。

神と言う言葉は、欧米の神、アラブの神、インド系の神と、日本の神とが、混同されて、理解された時期がある。

日本には、それらの、神観念とは、無縁である。

日本の、神は、祖霊のことであり、唯一絶対の人格神などは、無い。

更に、精霊信仰でもない。
祖霊は、自然に隠れる存在であり、そこから、自然崇敬の、思いが、満ちたものである。
それらを、総称して、神というが、神観念は、天地の差ほどある。

日本人に、宗教が必要ないのは、それだからである。
空気のようなものなのである。

ただ、祖霊に対する、自然に対する、所作だけがある。

神社参拝とは、あれは、本来、自然に参拝するものである。
たまたま、社を、設けただけである。
自然参拝は、祖霊参拝である。

神主という、職も、古来、村の長老たちが、持ち回りで、行ったもの。
国家資格の神主が、常駐する、神社神道は、明治期からのもの。
勿論、それ以前も、存在したが、別に、資格などはなかった。
その必要がないのである。
何せ、教義も、教理も無いのである。あるのは、所作のみ。

誰もが、神主になるのである。

その、象徴として、天皇という、存在を、置いたのである。

「神」の「死」とは、現代人のすぐれて今日的な意識の象徴である。神々のラディカルな死と喪失とを願うこころ、これをわれわれは今日ほど激しく実存的に感じ取ることはないかもしれない。神も権威も、体制も秩序も、ともにわれわれを束縛し、われわれを疎外させるものとしてネガティヴにひびく。
小原

それを、意識するもの達が、今を、生きるのである。
ニヒリズムは、長年続いている。
そして、終わることがないだろう。

そこには、様々な要因が、複雑に絡まり、その絡まりを解くことは、容易ではない。
だが、それらの、要因が、一人の人間、いや、すべての、人間を疎外しているとしたら・・・

それは、恐怖である。
妄想にさえにも、酔いしれない、人間の不幸は、余りある。
だから、
しかし、それとともに、あのバイド・パイパーのように、一人の笛吹き(メシア)があらわれて、われわれ農民たち(ねずみ)を引きつれてこのカオスの狂乱をしずめてくれるユートピアを、学生も教師も、牧師も信徒も、心のどこかではげしく待ち望んでいる。・・・・
人々の心をとらえて離さない「神の死」の神学は、その否定的、破壊的、消極的な印象にもかかわらず、その根底においては、深く肯定的、建設的、積極的な創造の情熱にあふれているのだ。その情熱とは何か。彼らは何をどのように指向しているのか。そこには神学という特殊性を越えた一般的な訴えかけはないのか。西欧人には問題であっても、日本人には関係ないものなのか。・・・
小原

キリストは、死んだか
アメリカ各界の人たちが、著した、本が、私の手元にある。
まさに、キリスト教が、変革するのか、変容するのか・・・

事実が、明るみにされた時に、人は、信徒は、どのように、何かを、解消させるのか。
勿論、それらに、関係なく、我が信仰の道を、行くと言う人もいるだろう。

そして、信仰の先には、架空の、ものが、存在するだけ。
つまり、何もなかったのである。

しかし、信ずる者は、それでいいのである。
信ずるという行為によって、救いと言うものがある。

昔の人は、言った。いわしの頭も、信心から・・・
しかし、自分の信じているものは、いわしでは、決して無いと、それも、信じるのである。

いわしの頭ならば、良かった。
何にも無いものを、在ると想定して、信じていたのである。

宗教とは、騙しのテクニックである。

ここに、現代の、深刻な問題がある。その、宗教の、騙しの事実を、人は、知ったであるから。
勿論、アホは、まだ、その蒙昧の中にいる。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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