2011年01月03日

神仏は妄想である 313

イエスを歴史上の神仏とみる資料は少なく、イエスを信仰上の対象とする文書が多くつくられていくなかで、イエスをキリストと信ずるキリスト教が形成され、発展していった。そこには原始教団がユダヤ教やローマ国家に批判され、迫害されていく社会的状況のなかで、強烈なドグマによって、心理的にそれにうちかとうとしたことが大きな原因になったのだろう。そしてイエスを自由な人間とする歴史的な思想は、そのような強力な教義を信ずる正統主義者からは、異端として無視されたり、排斥されたりした。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

異端は、イエスの死後、間もない頃から、多く存在していたのである。
しかし、原始教団によって、排除され、少数派になっていった。
更に、中世では、教会権力により、異端審判は、凄まじいものになった。

現代では、逆な現象が、出てきた。
20年ほど前から、イエスに関する、新しい、見方である。

現代では聖書学者や歴史家はもとより、むしろ一般の人々の間にも、イエスをキリストとして信ずるよりも、すぐれた、自由な人間として考え、「イエスとはなにか」を改めて問い直そうという関心が世界的にさかんになってきている。その風潮は「イエス・ルネサンス」などと呼ばれて、キリスト教界にもしだいに大きな影響を及ぼしつつある。その意味で、いまやキリスト教は根底から揺り動かされているといわねばならない。
笠原

つまり、信仰は、イエスという存在が、自分にとって、どのような意味を持つか、という、実存的な関係が、求められる。

歴史的には、イエスは、キリストではないのであるから。

信仰と考えると、教会の存在が、大きく、その教義を受け入れる、信ずるという行為になる。
それに関しては、極めて個人的な問題であり、他の介入を許さない。
更に、信教の自由である。

笠原氏は、イエスを、思想史の中で、捉える試みを提唱する。
それは、賛成である。

思想史としての、イエスの言葉を、検証することは、理想的である。

単なる、信仰としての、存在として、考えるということは、結果、それぞれの、教団の支配の下になるものである。

教会権力の下に入ると、それは、個人の信仰を超えて、教会という、集団の信仰グループに入ることであり、そこには、支配がある。
決して、個人の、勝手な解釈は、許されない。

更には、そのシステムの中で、個人の存在が、位置付けられて、信仰と、聖職者による、支配が、跋扈する。

更に、個人の中においても、奇跡的な、事実を見ると、迷う。勿論、それは、蒙昧、妄想なのであるが、そのように、信じてしまうのである。

いつもと、違う事象が起きる。
すると、それが、特別な意味を、持っていると、考える。そこから、信仰という、迷いに入るのである。

多くの、信徒たちを見て、私は、そう思った。

最近、イエスについての研究が進んで、イエス像がある程度、客観的に明瞭になってきた。同時に、それに伴って従来の主観的な、いわばイエスをキリストと信ずる神学的な主張はアピールをもたなくなっている。そして広い意味で人間としてのイエスに関する書物がヨーロッパやアメリカにおいても、日本においてさえ、他のキリスト教関係書よりも多く出版され、読まれているという現象はそのことを端的に示している。
笠原

それは、イエスだけのことではない、
ブッダに関しても、である。

勝手に、宗教の開祖として、祭り上げる存在に、嫌気がさしているのである。

それは、勿論、教団というものの、嘘、極めて悪質な、信者支配、更には、金銭の搾取などが、横行しているからである。

最早、そんな、教団には、イエスも、ブッダも存在しない。
存在するのは、宗教家の、地位と、無法である。

ブッダは、唯一絶対の、神観念を否定した。
ところが、イエスも、実は、その神観念を否定したのである。

その、神観念を否定することにより、神という存在の、在り様を、発見したと、いってよい。

彼らは、神仏は妄想であることを、明確にしている。

今を、生きること。
それが、問題であり、テーマだった。

それは、反逆の行為である。
しかし、ブッダの、地域と、イエスの地域は、別である。
当然、表現の仕方が違う。

そして、その二人を、持ち上げて、造り上げた、教義なるもの。実は、夢幻の妄想だったのである。

それを、哲学、思想と、呼ぶ事が出来るのか。
神学が、学問に入らないように、宗教の教義は、学問ではない。

勝手な、妄想である。

更に、そこに、救いという言葉、救済という言葉が、見えるが、皆々、嘘である。

救われるという言葉にある、本質は、救われないと、同じものである。
一体、誰が、救うのであるのか。
妄想の、仏や、神か。
妄想の存在が、救いも何も、あったものではない。
それは、その人の、頭の中にあるだけのものである。
理屈の中にあるものである。

神仏が、妄想であることを、悟り、そこから、己というものを、見る行為に、微かに、救いに、似たものを、見る事が出来る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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