2011年01月02日

神仏は妄想である 312

イエスをキリストとしたのはイエス自身ではないことは、近年の聖書の歴史的・批判的研究によって明らかになっている。イエスは自らをキリストと思い、また称したことはなく、教団がイエスをキリストに仕立てたというのが、その研究の成果である。一例をあげよう。すでに1926年に聖書学者ルドルフ・ブルマンが著した「イエス」にはつぎのように記されている。・・・なおブルマンははじめは合理主義的な近代神学を批判し、のちには聖書の非神話化、すなわち実存論的解釈を唱導したが、この書ではイエスの歴史的研究を行っている。
笠原

イエスは自分をメシアと考えたか否か、もしそう考えたとしたら、どんな意味でメシアと考えたか、何時からそう考えたのか、等々に関する判断がどんなにまちまちであるかを思うなら、更に自分をメシアと考えるということは実際小さなことではなくて、そう考える者の全存在を決定的に規定したに違いないことを思うなら、私達はこう告白せざるを得ない。すなわちこの点が不明瞭だと言うなら、私達はまさにイエスの人格に就いて殆んど何も知らぬに等しいのだ、と。私個人としては、イエスは自分をメシアと考えなかったと言う意見である。
ブルマン

イエスは、メシアというのは、歴史的事実ではない、ということである。

さらにいうならイエスはキリストではなく、むしろブッダであるといったほうが正確ではないか。ブッダが自覚した人間という意味であるのなら、イエスもまたブッダであるといってよいはずである。
笠原

実に、面白い考え方である。

イエス・キリストは、嘘であるが、ゴータマ・ブッダは、正確な名称だという。

心霊学研究から、言えば、イエスも、ブッダも、人類の教え親になる。
二人とも、大師と呼ばれるという。

勿論、人類の教え親は、多数いる。
だが、誰一人として、宗教を開かない。
実践のみに、焦点を当てる。

更に、面白いのは、
このことに関して、日本基督教団の牧師であった赤岩栄はつぎのように言っている。赤岩栄は第二次大戦後ただちに戦争中のキリスト教を反省して、キリスト教とマルクス主義は有神論と無神論の対立ではなく、人間における実存の問題と社会変革の問題として両立すると説いた。そしてキリスト教の教義、儀礼、教団を批判し、やがて「キリスト教脱出記」を著して歴史的にイエスを探求するようになる。晩年、1966年に書いた「仏教の光を通してみたキリスト教」の末尾にこう述べている。
笠原
と、言う。

このイエスは、神と律法という世界中で、もっとも捉われた考えをもつユダヤ教の中に生まれ、何ものにも捉われないで人間性に生ききった人であったのだ。もし、仏教圏に生きる人たちがイエスに違和感を感ずるとするなら、それは血なまぐさい西洋人のイエスに対するひいきのひき倒しに原因いるのである。福音書の編集史研究とともに、いまや、イエスを東洋の光の中で、これまでとは別のものとして、見出す時が始まろうとしている。そこで見出されるイエスは、西洋の植民地政策のお先棒としてかつがれた栄光のキリストではなく、衆生の悩み苦しみとの連帯性に生き、それをともに克服していく「ほとけ」にほかならないのである。
赤岩栄

南米、フィリピンなど・・・
西洋の植民地政策に、おいて、キリスト教、カトリックの果たした役割は、巨大である。
ねこぞき、彼らの、伝統文化を破壊し、更には、虐殺して、キリスト教に改宗させた。

虐殺の数、南米では、おおよそ、一億人である。
どこに、栄光の神の・・・があるのか。
このような、暴力を、カトリックの名において、行ったという反省、謝罪を聞いた事が無い。

更に、現在でも、ヒステリーのプロテスタントたちが、多くの国に、入り、ヒステリーな布教を繰り返している。
そして、争いを起こしている。

更には、その中に、キリスト教新興宗教も加わり、争いに、拍車をかけている。
信じられないのである。

どこに、栄光の・・・が、あるのだ。

西洋の植民地政策のお先棒としてかつがれた栄光のキリストではない。
まさに、その通りである。

つまり、
ともあれイエスは自分をキリストであると思わず、称さなかった。キリストといって権力的な称号はイエスにはまったくふさわしくないといわねばならない。それでもイエスをキリストと信じ、キリストと呼びたい人は少なくない。もとより信仰は自由であるから、それを防げることはできない。しかし、それはイエスの意に反した行為といわねばならないだろう。にもかかわらずキリスト教はイエスをキリストと信じる宗教である。ということはキリスト教は根底から矛盾した宗教であることを端的にあらわしている。
笠原

初期キリスト教団という、グループは、まだ、ユダヤ人のキリスト教だった。しかし、ローマが、国教しとした、カトリックは、権力と結び、その権威を持って、権力と、共同して、教線を拡大した。

その前に、ローマにより、ユダヤ人キリスト教徒は、皆殺しにされたのである。

初めから、血なまぐさい集団だったということである。
それからの、ことは、歴史を見れば、一目瞭然である。
宗教戦争、イスラムとの、戦い。戦いに明け暮れた宗教である。

西洋は、ほとほと、戦いが嫌になって、もう、戦いは、この地域では、止めようと、EUが、出来た。

その原因は、すべて、キリスト教である。

そうなるべく、イエスをキリストとして、祭り上げたのであるから、どうしようもない。
加えて、白人主義である。
西洋の、白人たちは、色付き人間だった、アジアのイエスを、自分たちのグループに取り込んだ。

イエスは、白人なのである。

であるから、歴史的存在の、イエスとは、別人である。
つまり、魔神のヤハゥエの子孫として、これまでやってきたのである。

イエスと、ヤハゥエは、何の関係も無い。
その、楔から、解かれよと、イエスは、訴えたのであるから。

と、すると、何もかも、一から、やり直さなくてはならない。
イエスの、存在である。

旧約聖書と、新約聖書の間には、何のつながりも無いのである。

繋げたのは、ユダヤ教徒の革新派である。
イエスは、キリストだと、嘘偽りを、平然とついた・・・彼ら、である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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