2010年12月06日

プノンペンの悲しみ 6

カンボジアを、理解するために、少し、歴史の流れを、見ることにする。
前回の、旅日記と、重複するものもあるが、はじめて、読む人のために、書く。

前アンコール時代
アンコール時代
後アンコール時代がある

後アンコール時代に触れると、カンボジア王国は、アンコールを放棄し、王都を、スレイサントー、プノンペン、ロンヴァエク、ウドンと、転々と変えていった。

今回は、そのウドンに私は、慰霊に出かけたのである。

15世紀以降、西のシャム、つまり、タイのアユタヤ王朝、バンコク王朝、17世紀以降は、東のベトナムに、領土を徐々に、蚕食されてゆく。侵略である。

16世紀中頃、カンボジア王国は、ビルマとの戦いで弱体化した、アユタヤ王朝に、攻撃を仕掛けることもあった。
しかし、シャムの巻き返しにより、カンボジア王室に、シャム王室の影響力が強まるのである。

更に、王家の内紛、地方官僚の離反などにより、王権が、弱体化し、国力も、衰退する。

18世紀後半、シャムと、ベトナムの攻撃によって、カンボジア王国は、国家滅亡の危機に陥った。
1835年から、1840年まで、アン・メイ王女が、ベトナムに行政権を奪われる。
1841年には、国土が、合併されて、国王が国内に不在になるという、事態になる。

1845年、シャムと、ベトナムの妥協が成立し、1847年、アンドゥオン王が、正式に即位する。国内は、一時的に、安定した。
しかし、実質的には、シャムと、ベトナムに属されていたのである。

そして、シャムと、ベトナムの二重属国関係から、脱するために、アンドゥオン王は、1853年に、アジアに進出した、フランスに接近する。

1863年8月、ノロドム王は、フランスと、保護国条約を結び、フランスの支配下に入った。

1884年の、協約の締結により、フランスによる、植民地体制が、強化される。

1887年、フランスによる、インドシナ連邦の成立と共に、インドシナ植民地の一部に編入される。
1953年の、独立まで、フランスの支配を受け続けたのである。

この当時の、フランスの、支配体制が、カンボジアを遅れた国にしたといっても、過言ではない。

カンボジア人の多数を占める、クメール人の民族意識は、眠ったままになったのである。

そして、第二次世界大戦後、フランスからの、独立を目指す。
多くの、植民地が、この、大戦の後に、独立を目指したことは、事実である。
その、きっかけを作ったのが、日本である。

欧米を敵に回した、大東亜戦争の意義は、大きい。
更に、どんどんと、新しい事実が、出ている。
今までの、大戦の意味が、新たに問われ、日本の存在が、歴史の転換期を作ったことが、証明されるだろう。

カンボジア独立運動の、先頭に立ったのが、1941年、19歳で、即位した、シアヌーク国王だった。

ところが、それがまた、複雑な形相を帯びるのである。

シアヌークは、フランスとの交渉を積極的に進めるが、部分的な自治権のみ、承認される。
完全独立の道のりは、平坦ではなかったのである。
1949年、フランス連合の枠内での、限定的独立を獲得するが、司法権、警察権、軍事権などが、フランスに残された。
そのため、国内では、シアヌークに対する、非難が起きて、地方では、ベトミン「ベトナム独立同盟」系のゲリラや、反共勢力による、活動が活発になる。

シアヌークは、1953年2月、合法クーデターにより、全権を掌握し、フランスとの、直接交渉に当る。
1953年4月、国際世論に訴えて、フランスから譲歩を引き出し、同年、11月、完全独立を果たした。

独立を果たした、シアヌークは、インド、中国、フランスとの関係を重視しつつ、東西陣営の、どちらにも、属さないという姿勢を貫いた。

この、中立外交は、戦乱のインドシナ半島において、ベトナム戦争の戦火を被らずに、平和を維持する、現実的な、政策だったのである。

シアヌークは、内政的には、仏教社会主義を唱えた。
王制と、民主主義、社会主義は、矛盾しない概念であると、主張したのである。

1955年、シアヌークは、王位を父スマリット殿下に譲り、退位した。

その直後に、国民統合を目指して、国家建設を推進する、人民社会主義共同体、サンクムを、結成し、総裁に就任する。

王制と、仏教を擁護しつつ、計画経済政策を導入するというものである。
しかし、その実体は、シアヌークによる、独裁的政治運営であった。

1970年代後半、中国に倣った、自力更生による、経済政策が失敗し、財政が困窮する。と共に、サンクム内における、左右勢力の、均等が崩れた。

1970年3月、右派、ロン・ノル将軍によって、外遊中のシアヌーク国家元首は、解任される。

だが、右派の、政権奪取は、ベトナム戦争の、カンボジア領内への、拡大を招く結果となった。
不幸なことに、カンボジアは、戦乱に巻き込まれていったのである。

ここから、更に、混乱への、道のりが、はじまる。

多くのアジアの、植民地となった、国々は、カンボジアの形相を帯びたといえる。
独立を果たしても、国内の政情不安定が続く。
結局、独裁的指導者が、一度、政権を持つが、混乱を招き、何十年もの間、国が安定しないのである。

西欧の、植民地政策が、いかに、民族差別に基づいたものだったのかが、解る。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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